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「じゃあ一之瀬君、おっ掃除よろしくぅ~!」
ご機嫌な大佐が会議室を後にするのを、完璧な作り笑顔で見送ることから俺の今日の業務が始まる。
正確にはここは日本軍の対ノーティア国軍事基地作戦会議室。毎日のようにお偉い軍人さんが机を囲み、いかに日本国の国境線を奥にやるか頭を捻らせる場所だ。
とは言え、今度の相手はこの異世界の中でも小国のノーティア。つまり、弱い。国力も無ければ兵力も無く、彼らからしては戦車対赤子のような感覚なのだろう。
「ま、俺にゃ関係ないけど」
そりゃそうだ。俺は別に百戦錬磨の軍人でも百発百中のスナイパーでも無い、ただの一般人。今みたいに誰もいない会議室で机のホコリと睨めっこをするお手伝いさんみたいなもんだ。
ただ日本人にしては珍しく魔力を持っているだけで、銃より役立てるかと聞かれると答えはノーである。
「~♪」
日本軍が異世界人との戦争に夢中な裏で、俺は鼻歌交じりに雑巾を動かす。
たまに行われる魔法関連の実験を除けば、大体雑用だけの業務。それで給料が貰えるんだから文句などあるわけない。きっと明日も、明後日も、来年も続く……それこそ、日本軍がこの異世界を統一するその日まで。
「ん?」
そう信じて疑わなかった。たった今、会議室のドアが開くその瞬間までは。
「……誰だ?」
お茶目な大佐が忘れ物でもしたのかと思ったが、室内に入ってきたのは見知らぬ人物。
黒のローブに全身を隠しているせいで顔も、性別も分からない。ただ俺より一回り小さいあたり子供だろうか。
少年、または少女は無言で俺の方に黒く隠れた顔を向けた。
「……どうしているんですか」
その驚きを含めたような声は、どう考えても少女のもの。
それも何故か確信できる。ローブの下は絶世の美少女だと。それほどまでに綺麗で、脳ミソが溶けてしまいそうな声だった。
あをるいは単に、長らく女を見ていなかったことによる副作用かもしれないが。
「あー……顔、見せてもらってもいいか」
「えっと、すみません。今、極秘作戦中なので」
「あ、いや。ならいいけど」
何をしているんだ、俺は。こんな時は「曲者ーっ!」とでも叫んで誰かを呼ぶのがセオリーのはずなのに、顔を見せろとは一体。恥ずかしさのあまりコンクリートの床の上で転がりたくなってしまう。
いや、それよりも今何て言った?極秘作戦だって?
「とにかく、私の邪魔をしなければ危害は加えません。そこから動かないでくださいね」
とりあえず様子を見るべく、無言で頷きを返す。だが、俺達の間に流れた緊張感はそう長くはもたなかった。
「ぶっ」
警戒心からか、俺から目を逸らさぬよう体をこちらに向けたまま横に歩く少女。そのどこかシュールな歩き方に、思わず吹き出してしまった。
しかし、何故俺が突然笑い出したのか分からない様子で、少女はそのまま足を真っ直ぐにしたカニのように歩き続ける。それもゆっくりと。笑い殺すつもりか。
ようやく少女が足を止めた先は、大佐の席。すると机の上に置かれていた紙束を手に取って読み始めた。
「ふむふむ……」
不用心なことに、少女はすっかり俺から目を離している。そこで、前かがみになって紙束の表紙を覗き込むと大きく書かれた文字が見えた。
「ちょ、ちょっと待て! それはマズい!」
「何ですか、大声を出さないでください」
「いや、情報が筒抜けだって俺が知ってるんじゃ意味ないだろ!?」
「……確かに、それもそうですね」
ドジッ娘なのか、いや天使か。
少女が見ていたのは日本軍のノーティア攻略作戦指令書。なるほど、つまりこの少女はノーティアの隠密部隊というわけだ。勝算を作るために敵日本軍の基地へと忍び込み、作戦情報を盗み見する。完璧だ。だがどう考えてもこの子を使ったのは人選ミスじゃないのか。蚊一匹潰すのも躊躇いそうな子供を寄越すなんて、ノーティアも血迷ったに違いない。
少女は紙束を机に戻すと顔に手をやった。よく見えなくて残念だが、アニメで可愛いヒロインがよくやる「うーん」のポーズだろう。
「……仕方ありません」
「?」
少女の顔が再び俺の方に向けられる。そして、掌を俺に見せつけるかのようにその腕を水平に持ち上げた。
止まれ、のサインだろうか。そんなことを無意識に考えていた俺は、少女の次の言葉に茫然自失してしまった。
「凍ってください。私の国のために!」
少女の腕を包むかのように生成されていく白い粒。空気の色さえも変えてしまうほどの冷気を放つそれは、やがて濃度が高くなるにつれて少女の掌に移動していった。そして、一つに集中して――
「うぉあっ!?」
「どうして避けるんですか!」
「んな無茶な!」
その小さな掌から勢いよく発射されたのは、サッカーボール程度の大きさの氷塊。
俺の頭目がけて飛んできたそれは、紙一重回避した俺の肌に冷気だけを残していった。嫌な汗が頬を撫でる。
この手の魔法はよく知っている。少しでも触れれば氷塊に閉じ込められた氷の魔力が発散し、たちまち全身が凍り付いてしまうヤツだ。今までの戦争で日本軍も散々これに苦しめられてきたと聞いている。
もちろん、普通の人間なら死ぬ。そんな品物を再び撃とうと構える少女の姿は、とてもさっきまでの様子からは想像もつかなかった。
「まじかよっ」
二発目は外れ弾。いや違う、囮だ。視線がそっちにズレた間に三発目は既に少女の手から離れ、俺の胸元目がけて飛んでくる。
避けるのは簡単だが、それではラチが明かない。丁度足元に転がっていたパイプイスを思い切り蹴り上げ、寸でのところで盾替わりにした。
「ホントに何なんですかあなたは!?」
「魔法は俺の十八番なんでね、お返しだ!」
驚きのせいか隙を見せた少女に向かって宙を舞うカチコチに凍ったパイプイスを蹴り飛ばす。
俺は魔力があるだけで魔法は使えない。だからいざ戦闘となれば、物理で何とかするのが俺の戦い方だ。
「くっ」
何発目だろう氷塊によって撃沈してしまったパイプイスだったが、十分働いてくれた。少女が気を取られている内に机の上に足を付ける。
「今度はこっちの番だ!」
まだ少女は溜めのモーション。今までの様子から見て、この氷の魔法は三秒程度のインターバルがあるはずに違いない。
それだけあれば十分間に合う。俺は両足に力を入れ、少女目がけて思い切り飛んだ。
「ふふふ……」
「っ!」
背中を悪寒が走った。光が混じりほんのりと見えたローブの中身には、水色の綺麗なショートヘアーに、これまた水色の瞳。そして何よりも、まるで「かかった」と言わんばかりに横に伸びた口。
コイツ、間違いなく楽しんでやがる。
「アイスマス!」
「!?」
まだ二秒程度しか経っていないはず、なのに再び少女の手から氷塊が放たれた。
詠唱でもすれば時間短縮される?いや、氷塊は今までより目に見えるほど小さくて遅い。威力を犠牲にした時間短縮なのだろう。なら初めて口にされた魔法名は、良い場面でカッコつけたいというアレとでも言うのか。
しかし、いくら弱いと言っても、対して俺は丁度ジャンプをしたせいで空中。避けることは出来ない。
「う、ぐぉっ!」
抱きかかえるように氷塊を受け止める。魔法とは何かに当たったら爆弾のように魔力を発散させるモノ。だが俺に触れても消えない氷塊は、その代わりに強い衝撃を俺の腹に与え続ける。
「こんの!」
こみ上げる嗚咽感に気持ち悪くなりながらも、氷塊を軸に何とか体を捻った。
魔法とはもう一つ、物理法則を無視するモノ。いくら俺が力を加えたところでその進行方向は変わらない。
つまり、俺がいくら横に逸れても魔法は真っ直ぐ進もうとする。氷塊も例外では無く、そのまま後方へと受け流されていった。
「なっ」
両足が地面に着く。驚愕する少女は目の前。
考える隙なんて与えさせない。透かさず俺は、少女に向かって手を伸ばした。