隣人
前の話の続き。
「あ、今日は遅かったね」
立て付けの悪い窓を開き、ベランダに出れば心地の良い声が聞こえてきた。
時間も時間だから、低く押し殺されている。
理由はそれだけではないだろうけど、その気遣いが嬉しかった。
エーさんの声に見えないのだけど軽く会釈してから「ちょっと、あって」と付け足した。
エーさんは敢えてちょっとを何か聞かなかった。
「待ちくたびれて僕の手足は氷嚢同然だ」
「ごめんなさい……」
「良いよ。ミカちゃんに暖めてもらうから。はい」
横からにょきっと色白の腕が出てきた。
私のぷにぷにの腕と違って、筋肉と血管と皮で成り立っているみたい。これが、男の人の腕なのか。
寒さで悴んでる訳ではないのに冷たい掌を、ズボンで擦って暖めてから、エーさんの腕に駆け寄った。
包む様にして、エーさんの手を暖めようと思ったのだけど、私の両手でもはみ出る位、大きかった。
「ミカちゃんの手、小さくてこしょばいね」
「小さくて悪かったですね」
「誰も悪いだなんて言ってないよ。女の子らしくて可愛いんじゃないか?」
何で疑問系なんですか。
苦笑を浮かべながら、『女の子らしいよ』と言われた方が嬉しいと一人思った。
「……それはどうも」
「あ、こないだ渡そうと思ってた物渡せずに帰っちゃったから、今あげる」
そういえば、と思い出した。
ガトーショコラをあげる代わりに、私も何かを貰うと約束したのに、それは果たされずに終わった。
というか、私自身も忘れてた。
「何ですか?」
「見てからのお楽しみ、目瞑って」
「はい……」
きゅと、軽く瞑った。視界が暗黒に染まる。
エーさんに乗せていた手が、エーさんによって開かれ、ぷにぷに肉球を押すように遊ばれる。
「こしょばいですってば」
「んー、もちもちしてる。若いって良いね。まあ、これは僕がしてみたかっただけで関係ないのだけど」
「……はあ」
弄ぶ様にぷにぷにした後、一旦、私の手は宙に放り出された。
直後、何か四角い箱が掌に収まった。これは……?
「開けて良いよ」
小さい私の手に収まる位の小さな藍色の箱。ゆっくり開ければ、月明かりを反射して輝く髪飾りが収納されていた。
「……わあ、綺麗」
私なんかが付けるには大人っぽ過ぎる動かすだけでシャラシャラ素敵な音を奏でる簪を手に取り、空に翳した。
キラキラ、キラキラ、こんなにも綺麗な物を見たのは初めてだ。
いや、違う。初めてじゃない。今思えば、初めてエーさんに会った時思った筈だ。
なんて綺麗な人なんだ、と。
髭面でヨレヨレの服で、不審者にしか見えなかったけど。
「ミカちゃんに似合うと思ったんだ」
「これ、買ってくれたんですか?」
「んーん。家に埃被って落ちてた」
「そこは嘘でも良いから、買ったと言ってくださいよ。なんか嬉しくないです」
「そっか」
あはは、とエーさんは無邪気に笑った。何故か、空笑いの様に気持ちが込もってない様に思えた。
顔が見えないから? 何か、聞いてはいけないことに触れた?
「ミカちゃん、それ付けてみて」
「簪ですか? ……付け方分からないです」
「そうかー。僕も知らないな。付けた事ないし……お母さんは知らないの?」
「お母さん、ですか?」
今日も懲りなく性にまみれ汚い母親は、短髪だ。少ない会話を思い出しても、伸ばしたという話は聞いてない。
きっと、母親も出来ないだろう。
出来たとしても、聞きやしないけどね。あんな穢く汚れきった人に話し掛けたくもない。
「出来ないと思います。あの人は」
「あー、うん。そっか。そうだねー」
エーさんは早口に言いのけてから笑った。
「なら、ミカちゃんの為に簪の付け方習得しとくよ。なら、良いでしょ?」
「良いのか分からないですけど、男の人なのにどうやって覚えるんですか?」
「あー、それは、アレだよ。うん。イマジネーションとか」
「ぶふっ」
「笑ったなー。此方とら必死なのに」
「だって」
エーさんが可愛いから仕方がないでしょう。
イヤ、私の年でエーさんを可愛いだなんて言ったら怒られるかも。自粛、自粛。
「何でもないです。ありがとうございます。大事にします」
「いんや。此方こそ受け取ってくれてありがとう。何か、すっきりしたよ」
「……意味分からないです」
「良いよ、分からなくて」
大人になったら教えるから、と付け足してエーさんは笑った。
大人、か。なりたくない、けどなりたい。エーさんの横にいても恥ずかしくない位になりたいけど、母親の様な人になるのはイヤだ。
「でも、ベランダ挟んでじゃあ簪付けにくいよね。今度さ、僕の部屋おいで」
「え?」
「ちょっと汚いけど、虫は共生してないよ」
「そういう事じゃなくて」
僕の部屋って、エーさんの部屋で、つまり男の人の部屋って訳で、小学生の私が、男の人の部屋に行って良いのだろうか。
いや、別に何かある訳じゃないし、ましてやエーさんが母親のしている事を迫る筈もないし。大丈夫、うん。
「怖いなら無理しなくて良いよ。でもね、僕は女性からよく紳士って呼ばれるんだ」
読まれてた。かつ、自身のフォローを入れている。やっぱりエーさんは優しい。
でも、女性に紳士な事をしてるのかと思うと、何故かムッとした気持ちになった。
ワガママね、私。
「そうですか」
「僕が無口で無愛想だから揶揄して影で言われてたんだ。直接は聞いたことない」
「無口で無愛想? 私には饒舌に喋るのにですか?」
イライラしたのもつかの間で、今度は突然嬉しくなった。
女性に紳士にしているのではなく、無口で無愛想だから、呼ばれてたのだ。
人としてどうかとは思うけど、エーさんが私以外の女性と饒舌に話したり紳士な行動を取って欲しくない。
ヤキモチ? 違う。ずっと犬歯を剥き出しにしてた犬を私だけが手懐けた筈なのに、他の人にじゃれてるのを見た時の気持ちに似ている。
取られたくないんだ。きっと。だから、ヤキモチなんて可愛い言葉で表せない。
「あー、痛い所つくね。きっとそれは、ミカちゃんがミカちゃんだからだよ」
隣人がミカちゃんじゃなかったらベランダで会ったとしても、会話しなかったと思うよ。
と、エーさんは良いながら笑った。
私も、エーさんがエーさんじゃなかったら会話しなかったと思う。
そもそも、エーさんでなければあの出会いが生まれなかっただろう。
ベランダの手摺によじ登って空を飛ぼうとしていたエーさんだからこそ、話し掛けれたんだ。
影が変に長くて足が浮いている様に見えたから、思わず隣のベランダを覗いた。
すると、外に背を向けた青年がいた。髭面で怖い人に見えたけど、寂しそうな気配に気がつけば話し掛けていた。
『自殺するんですか?』
『そう見える?』
『一歩足出したら落ちる様な場所に立つのは、自殺する人か空が好きな人位です』
『そっか。なら、僕は後者だ。空が好きで好きで、どうしようもないからここにいる。飛びたいんだ』
『本当ですか?』
『これが本当なら僕は相当なキチガイだよね。嘘、全部嘘だよ。飛ぶのも、自殺もなにもかも。僕に本当なんてない』
自嘲気味に自身を笑って、卑屈に語尾を上擦らせる。
『嘘でも本当でも、私には貴方は貴方でしかありません』
『……へえ、面白いね。君、名前は?』
『私が、ですか? 言いたくないです』
『なら、ミカちゃんで』
『や、違いますけど』
『名前なんてどうでも良いんだって。二人の合言葉みたいな物だと思ってよ。僕は、Aだから』
『エー、ですか? 何故ですか?』
『名前に意味なんてないよ。呼ぶのに簡単だからってだけ。強いて言うなら……少年Aに影響されて、かな?』
『痛い人ですね』
『ちょうど同世代か彼の方が少し年上なんだよね。だから、何となく』
『意味なんて、ないんですもんね』
大人なのに、大人らしくないのがエーさんだった。
でも、フワフワして掴めない。それが、幼い私には興味の対象になった。楽しかった。
その頃から家が荒れ出したから、エーさんとの会話を現実逃避の捌け口にしてたのかもしれない。
今も変わらない。エーさんと話すだけで、何故か楽しくなる。
「私も、こんな風に話せるのはエーさんだからです」
「じゃあ、二人とも特別同士って訳か。何か良いね」
「ですね」
エーさんの穏やかな笑い声が夜空に響いた。
反対に家の中は、私を置いて荒れ狂っていた。いつ帰るの? 優しかったお母さんは。
そんな、隣人のエーさんと小学生の私の日常。
終了。




