青年
「あ、こんばんわ」
ガラガラ、と表現するには余りにも激しい戸の音が聞こえた。
数秒後に、穏やかな落ち着いた低音で「こんばんわ、ミカちゃん」と返ってくる。
彼は隣人のエーさんだ。
「今日は良い天気ですね」
「そうかな?」
ベランダの手摺に持たれかかる様にして、空を見上げた。
エーさんも空を見ていた。一枚の火災時防火扉を隔てて、目が合ってぎゅっと、心臓が痛くなった。
無精髭にボサボサ頭、キチンと整えたら結構格好いいだろうに、エーさんは乱雑に放置している。
初めて見た時は不審者だと思ったものだ。
「僕は澄みきった雲一つない星空を見ていると無性に怖くなる」
「へえ、何でですか?」
「……子供には分からないよ」
変な間があった。
絶対何か隠している。いつもそう。大事な事を誤魔化したい時は、私が子供だからと真実まで辿り着かせない。
私は、エーさんの為に作ったガトーショコラの端っこをむしり食べ始めた。
「子供子供って馬鹿にひてたら、後で痛い目見まふよ」
「何だよ、痛い目って。あと、何か食べてない?」
屈託ない笑い声が、夜空に広がった。もし、他の団地の住人が今の笑い声を聞いたとしても、誰もエーさんだとは思わないだろう。
分かるのは私だけ。
落ち着くのも私だけ。
何でだろ。それがスゴい嬉しいの。
「食べへまへん」
「絶対食べてるでしょ。ね、僕にもちょうだい」
「食べへまへんっへば」
「ウソつけ」
何故、ここで意固地になってるのだろうか。きっと、私に興味を持ってもらえたのが嬉しいのだ。
何よ。子供じゃないって言っといて子供じゃないの。
「けちんぼ。じゃあ、ミカちゃんにあげようとしてたコレ落としちゃおうかなー?」
「なっ?」
すかさずエーさんを見れば、エーさんの手の中に何かが握られているのが分かった。
小さな……箱?
何かは分からないが、エーさんが私に何かを提供してくれるなんてまずもって珍しい事なのにそれを自ら捨てるのは惜しい。
なーんて、口実ぶってエーさん側のベランダに寄って上半身を乗り出した。
「ごくん。欲しい」
「じゃあ、ミカちゃんの口に付いてるチョコのお菓子くれる?」
「……良いですよ」
渋々という素振りでガトーショコラを渡した。
それも、エーさんに渡す為に事前に小分けし、ラッピングしたやつを。
わざと素っ気ないデザインにしたのは、後から『エーさんの為だけに作った』のだとバレない為である。
や。バレても良いけど、恥ずかしいじゃない?
「へえ、美味しそう。食べるのが勿体ないね。後でいただくよ」
「え」
今、食べてくれないんですか? 私はエーさんが食べてどんな反応を示すのか興味があったのに。
そんな私の内心を知ってか知らずかエーさんは頭を掻いた。
「だって勿体ないでしょ。これは、僕の家宝にするよ」
「こないだ作ったクッキーも家宝にするって言ってたじゃないですか。あれ、どうしたんですか?」
「腐らせる訳にはいかないから食べたよ」
「ですよね」
家宝だなんて大袈裟に言っといて、本当は大事にしてないじゃない。
いや、食べてくれて嬉しいんですけどね。
「僕のお腹の中でミカちゃんの手垢が付いた物質が消化吸収され、僕の細胞の一つになるって考えたら、家宝にしていると思えない?」
「む。屁理屈です。あと、何か言い回しが気持ち悪い」
手垢って、私そこまでベタベタ触ってないし、汚くないはず。
エーさんは自嘲気味に笑ってから、「よく言われるんだよな」と呟いた。
何か触れてはいけない部分に触れてしまった気がした。
「まあ、この話は置いといて。分かった。今食べるよ」
「お口に合えば良いのですけど」
「固いね。相変わらず」
「え!? ガトーショコラ失敗してました!?」
「ああ、違う。ミカちゃん自身の事だよ。まだ小学生だってのに、真面目で堅苦しいねって」
「そっち、ですか」
包装を開ける音が聞こえてきた。心臓が踊り出す。
「僕の前では固いミカちゃんの皮を剥いでも良いよ。僕はミカちゃんを嫌わない」
見透かされてる気がした。これは錯覚ではない、はずだ。
不覚にも突然の暖かい言葉に目頭を熱くさせながら、エーさんから目を外した。
背後ではいつもの様に淫らに性が入り乱れている。怖くてそこを逃げ出した私は、穏やかにエーさんと話して良い身分じゃない。
現実なんて、くそったれだ。
「……そーですか。で、ガトーショコラの感想は?」
「誠に美味でした」
「ふ。なら、良いです」
もにょもにょ緩んでいく頬を手で押さえながら、防火扉越しにガトーショコラを食べて微笑むエーさんを想像して一人胸を熱くさせた。
「じゃあ、今日はこの辺で。ありがとうね。ガトーショコラ、美味しかったよ」
「今度は違うのを作りますね。では」
「また、明日」
「…………はい」
また、明日。エーさんとの面会許可証を貰った気分で小躍りしそうになった。
危ない。そんなルンルン気分で、窓の奥、リビングに何か帰ったら怪しまれる。
でも、まだ事の最中なのだろうか。なら、気付かないよね。
エーさんが窓を開けて部屋に戻る音を聞いてから、慎重に窓を開き抜き足差し足で自室へ戻った。
脱ぎっぱなしの服に下着。放たれた性の香り。男を誘惑する甘い声。もう、すっかり慣れてしまった。
服を脱いだ一人が母親であろうと、相手が父親ではなく他人であろうと、母親がお金を貰ってソウイウコトをしていようと、もう、全部全部全部、慣れたんだ。
ベッドの軋む音を拒む様に、布団で頭まで覆って低く唸った。
……早く、明日になれ。
そんな、青年のエーさんと小学生の私の日常。
次の話に続きます。




