その3
生き物は驚いて体をこわばらせた。だが、リスを突きはなそうとはしない。分厚い毛の層を通して生き物の体温が伝わってくる。リスはぬくもりを求めてより強く体を押し付けた。
「寒いんだね?」
生き物は声を発した。それは人の声だった。リスは何度もうなずいた。
それからの記憶ははっきりしない。真っ白な世界を生き物に抱きかかえられるようにして歩き続けた。最後は気を失ってしまったらしい。気づけば暖かい場所で、たくさんの柔らかい布地に包まれて寝かされていた。
リスは頭を持ち上げて周りを見回した。彼女は小さな部屋の中にいるようだった。見たことのない材質の壁は黄色味を帯びた淡い光を放っている。まるで卵の殻の内側にでもいるようだ。化け物は洞穴にでも住んでいるのだろうと思っていたのでこれは驚きだった。父が化け物は強い魔法の持ち主だと言っていたのを思い出す。もしかしたらあの生き物は姿を変えて山にこもっている魔法使いなのかもしれない。
部屋の中にはリスが横たわっていた寝台と、小さな椅子とテーブルのような物が置かれている。壁の一角に扉らしきくぼみがあるのに気付いてリスは立ち上がった。薄黄色の床は真っ平らで足を下ろすと弾力を感じる。染み一つない床を横切って扉の前に立ってはみたものの、壁と同じ材質の扉はのっぺりとして指をかけるところがどこにもない。閉じ込められてしまったようだ。
リスは指先で扉に触れてみた。するといきなり扉の中央が割れ、音もなく両側の壁に吸い込まれた。リスは飛び上がるほど驚いた。
ぽっかりと開いた戸口から一歩下がって外の様子を伺う。この部屋の外にも別の部屋が続いているようだ。冷たい空気が部屋の中に流れ込んで来る。また扉が閉まるのではないかと不安になり、リスが思い切って足を踏み出せば、そこは天井の高い大きな部屋だった。床には寝椅子のようなものがいくつも置かれ、そのうちの一つに真っ白い生き物が座っている。
彼女に気付いた生き物は顔を上げた。出られたと思ったらもう見つかってしまった。どうしていいのか分からずその場に突っ立っているリスに、生き物は穏やかな声で話しかけた。
「目が覚めたんだね。こちらの部屋は寒い。部屋に戻りなさい」
リスは命令に従うべきかどうか戸惑った。だが、白い生き物は寝椅子から立ち上がり、彼女に向かってまっすぐに歩いてくる。押し戻されるように彼女は部屋に戻った。彼女に続いて生き物が入ってくると扉が後ろで閉まった。
このままここに監禁されてしまうのだろうか。生き物は恐ろしいとは思わなかったが、この窓のないのっぺりとした小部屋に閉じ込められるのは怖かった。リスの不安そうな顔に気付いたのか、生き物が言った。
「この部屋から出て来てもらっても構わないんだよ。だが、向こうの部屋は私に快適と感じられる温度になっているんだ。あなたには寒すぎるだろう」
生き物は柔らかく澄んだ声をしている。雪の中を歩いている間、何度もこの声に励まされたのをリスは思い出した。生き物は優雅な動きで首をかしげるとリスを見つめた。彼の仕草と目尻が上がった大きな金色の目はリスに昔飼っていた猫を思い出させた。異形だけれども、やはり化け物には見えない。
「あなたが東の峰の化け物なの?」
「村の人達にそう呼ばれていることは知っている」
生き物は続けて何か言おうとして口ごもった。
「すまない。誰かの顔を見て話すのは久しぶりだから」
「久しぶり? あなたは一人なの? 私の父はあなたのお父上に会ったのでしょう?」
生き物は若く見えたので、リスはこちらが息子の方だろうと推測したのだ。
「そうだ。あなたの父上と吹雪の中で出会ったのは彼だよ。夏の初めに病がひどくなってね。眠りについたよ」
生き物はそういうと下を向いた。父親を失ったことを悲しんでいる。つまりこの生き物……彼には人と同じような心があるのだ。
彼はすぐに顔をあげると明るい声で言った。
「あなたと話せて嬉しいよ。リス」
「私の名前を知ってるの?」
「ああ、村の人の名は全部知っている」
彼が奥の壁を指さすと、驚いたことに壁一面にどこかの景色が映し出された。
「見てごらん」
リスは恐る恐る壁に近づいた。心に望むものを映し出すという魔法の鏡の話を読んだことがある。これがその鏡なのかもしれない。
薄暗くて最初は分からなかったが、映っているのは村の広場だった。とうに日は暮れたのだ。自分はどれぐらいの間眠っていたのだろうとリスは訝しんだ。鏡には次々と村の様子が映し出された。酒場のある大通りにも今夜は明かりひとつ灯っていない。喪に服してるんだ。そう気付いてリスは悲しくなった。あそこでは自分はもう死んだ人間なのだ。
「人の集まる場所ならたいていは見られるよ。父が村を監視できるようにしたんだ。急に私たちを退治しようなんて気になられては困るからね。声も聞けるんだよ」
彼がリスには分からない言葉で壁に向かって話しかけると、壁に結ばれた像は暗い学校の教室へと変わった。
「学校だわ」
「特等席だろう? 授業の様子は毎日見ていた。私はこうやってあなた達の言葉を覚えたんだ。毎日ここに座って村の子供たちと一緒に授業を受けたつもりになっていた。父にあそこに行かせてくれとせがんで困らせたこともある」
生き物はリスを見た。
「あなたはいつも夢見心地だったね。でも頭は人一倍いいんだ。あなたには誰もかなわなかった。あの傲慢なビルでさえもね」
嘲笑するような声の響きに、彼はビルの事を快く思ってはいないのだとリスは感じた。
「あなたには名前はあるの?」
「キリムと呼んでくれればいい」
「これから私をどうするつもりなの?」
思い切ってリスが気になっていたことを尋ねると、キリムの口角が持ち上がった。
「どうするつもりもないよ。あなたは私の客人だ。ここでは好きにしてくれればいいんだよ」
生き物は立ち上がった。
「食事を持ってくるよ。お腹がすいただろう?」
食べ物の載った大きな皿をテーブルの上に置くと、キリムはリスを残して部屋から出て行った。腹を空かせていたリスはすぐに食べ始めた。見たこともない食べ物が並んでいたけれど村で食べるどんな物よりもおいしく感じられた。
彼女がここで魔法使いの客人としてもてなされていると知れば、村の人たちはどんなに驚くだろう。けれども村では彼女はもう存在しないことになっているのを思い出して、リスは寂しくなった。
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食事の後、リスはキリムのいる部屋を覗いた。部屋に置かれた長椅子はどれもいびつな形をしているがいかにも座り心地がよさそうだ。隅には大きなテーブルがあり、彼女には用途の分からない道具がいくつか置かれていた。キリムは大きな壁に映し出されたどこかの風景を眺めていた。この家の壁はみんな魔法の鏡になってるんだろうか。
リスが入ってくると彼は振り返った。
「ここは寒いよ」
「でも部屋でじっとしてるのは嫌だわ」
キリムは立ち上がると部屋の外へ出て行き、しばらくして大きな箱を抱えてもどってきた。箱の中には小さな包みがぎっしりと入っている。一つ一つの包みには見たこともない服装をした人間の絵がついていた。
「これは何?」
「備品の中にこれがあったのを思い出したんだ。防寒着もあったはずだよ」
キリムは大きめの包みを引っ張り出して包装を確認した。
「青色は好きかい?」
よく分からないながらも、リスはうなずいた。彼が袋を裂くと中から美しい青色の布地が出てきた。彼女の着ていたクロークに形こそ似ていたけれど、身体に巻きつけてみれば比べ物にならないほど軽くて暖かい。滑らかな布にリスはうっとりと指を滑らせた。こんなに薄いのに暖かいなんて、この服には呪文がかけられているのかもしれない。
キリムは惜しげもなく袋を開けると、リスに帽子や手袋、丈の長いズボンなどを次々に手渡した。
「どれでも使うといいよ。私には必要のないものだから」
そう言って彼は残りの包みの入った箱をリスの部屋に運び込んだ。必要もないのにどうして人間のための衣類を持っているのかリスは不思議に思った。
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お腹も膨れて人心地のついたリスは、大きくて柔らかい寝椅子の上にぬくぬくと座り込んだ。キリムは部屋の隅から大きなカップに入った飲み物を持ってくると、彼女に手渡してくれた。飲み物は茶色くて香ばしい香りがする。一口飲むと苦い味が口中に広がり、彼女は顔をしかめた。
「口に合わないかい?」
「よくわからないわ。初めて飲んだから」
「それはコーヒーというんだ。飲みすぎると目が冴えて眠れなくなるよ」
キリムはリスから一番離れた椅子に腰掛けて、自分の飲み物をすすった。
「どうしてそんなに離れてるの?」
「化け物があまり近くにいては嫌だろう?」
「あなたは化け物には見えないわ」
「嘘はつかなくてもいい。自分がどんな姿をしているのかは承知している」
「でも、あなたはとても綺麗なのよ」
リスは立ち上がるとキリムに近づいた。彼は凍りついたように近づいてくるリスを見つめた。
「隣に座ってもいい?」
リスはキリムの隣に腰をおろすと、おずおずと彼の背中に触れた。彼には雪の中を歩いてくるときに触れたきりだ。あの時は手足の感覚なんてほとんどなくなっていた。
「触ってみたかったの。すごく柔らかいのね」
リスはキリムの身体に顔を寄せた。腕を覆う真っ白い毛に自分の頬をすりつける。
キリムは身動きできずにいた。何年もの間、自分は村人たちにとって醜悪な化け物なのだと信じ込んできた彼には、リスの行動が理解できなかった。
リスは彼の手を取ると興味深げに眺めた。彼の手の甲には長く柔らかい毛が生えているが、手のひらは人間のものにそっくりだった。うすいピンク色をしていて指の先には指紋もある。
彼女のあけすけな好奇心に、キリムは居心地悪げに身じろぎした。父の言い残したとおり娘を迎えに行った。自分の姿をみれば怖がり泣き叫ぶだろうと思っていたのに、彼女は自分を恐れぬどころか美しいとまで言っている。どうしていいのかわからず、彼はただ黙ってリスのなすがままになっていた。
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翌朝、キリムはリスに家の中を見せて回った。何一つ隠すつもりはないらしい。いつも彼のいる大きな部屋を中心として、リスの部屋と同じような小部屋がぐるりと並んでいる。そのうちの一つには彼女の服が入っていたのとよく似た箱が規則正しく天井まで積み上げられていた。不思議な形をした装置の並んだ部屋もあった。
部屋の床下にも大きな部屋があるのだが『きかんぶ』なので見ても面白くない、とキリムは言った。リスは床に穿たれた丸い入り口から中を覗いた。柔らかな振動が空気を満たしている。きっと『きかんぶ』は強い魔法に満ちあふれた場所なのだろうと彼女は思った。
午後になるとキリムはリスを連れて家の外に出た。昨夜は吹雪いたので雪はまだ柔らかい。家の出入り口は深く積もった雪よりもわずかに高いところにあった。キリムの家は雪でできた小山のように見える。雪で覆われているので何でできているのかはわからない。ぐるりと周りを回ってみると外壁は綺麗な円を描いているのだと分かった。
「ねえ、あなたは魔法使いなんでしょう?」
「私はただの人間だよ」
不思議そうに見つめるリスを見てキリムの口の両端が持ち上がった。それが彼の笑顔なのだと今ではリスにも分かっていた。
「少なくとも私たちの来たところではそう呼ばれていた」
「あなたはどこから来たの?」
キリムは空の彼方を指差した。リスが見上げれば、薄紫色の冬の空に青白く竜の星が光っている。
「あっちの方だよ」
怪訝な顔で彼を見つめるリスを見てキリムがまた笑った。
「私と父は遠い星から来たんだ。これはね、家ではなくて乗り物なんだよ。星から星へ渡る船なんだ」
リスは驚いた。それではあの物語は本当なんだ。偉大な魔法の力を持った人たちが星の世界を行き来しているというのは。
「私の星の人たちもね、昔はあなた達と同じ姿をしていたんだよ。私の先祖はとても寒い星へ移り住んだ。毎日、防寒着を着て暮らすよりは、自前の毛皮を着たほうが合理的だと思ったんだろうね」
「私と同じ姿?」
「そうだよ。この宇宙にはたくさんの人たちが住んでいるが、大半はあなた方と同じ姿をしているんだ。私たちは元々一つの星で暮らしていたんだよ。何千年もかけてたくさんの星に移り住んだ。その過程で自分たちの姿を変えた者たちもいた。私の一族のようにね」
三重の毛の層に覆われた彼の身体はかなりの低温にも耐えることができる。猫のような虹彩を持った瞳は雪原でも雪目にならず、冬の長い夜も昼間のように明るく見える。彼の先祖は氷で閉ざされた星で生きることを決めたのだ。
彼の話にリスは夢中で聞き入った。ずっと憧れていた魔法の世界への入り口はこんなところに隠されていたのだ。
「あなたのこの世界はね、『失われた植民地』の一つなんだ。あなた達の先祖はこれと同じような船に乗ってこの星へと移り住んだんだよ」
「私達も星の世界から来たというの?」
「ああ、そうだよ。でも、何百年も経つうちに自分たちがどこから来たのか忘れてしまったんだ。『中央』から遠く離れたこの辺りにはそういう星がいくつもあると言われている」
「『中央』?」
「私たちの世界の中心のことだよ。私の父は『失われた植民地』探索に取り憑かれていてね、休暇さえ取れれば可能性のある惑星を一つ一つ回っていたんだ。ついにこの星を見つけ、着陸態勢に入ったとき、何かが起こった」
「何があったの?」
「分からない。何かが船に接触したようなんだ。なんとかここに不時着したのだが船が動かなくなってしまった」
「それじゃ、あなたは自分の星に戻れないの?」
リスの驚いた顔を見てキリムは微笑んだ。
「そうなんだ。私はね、ここで助けが来るのを待っているんだよ」