その2
詳しい話は翌朝、洗濯場で近所の女達から聞かされた。リスの父親は村を救うため、娘を人身御供に差し出すことを化け物に誓ったというのだ。村のために村一番の美貌の娘を手放すことを決意した男は、村の英雄に祭り上げられたと言うことだった。
話を聞いた男の母は男をなじった。成人間近まで母親代わりに育ててきたというのに人身御供になんて出されちゃたまらない。なんとか考え直させようとしたが、男は聞く耳を持たなかった。
男の父親は猟師だった。だが、息子は後を継ぐのを拒み、毛皮の商いを始めた。ずば抜けた商才の持ち主だった男はみるみる頭角を現し、今では村の名士に数えられるようになった。
「昔は毛皮猟師といえば村で一番尊敬されていた職業だった。お前みたいなのが猟師から尊厳を奪ったんだよ」
男は老婆には言いたいように言わせておいた。そして最後に必ずこう言って笑うのだった。
「誰のおかげで豊かな暮らしが出来ると思ってるんだ。親父の稼ぎじゃ食っていくのがやっとだったじゃないか」
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リスが人身御供に出されると決まってから、村人たちは彼女を避けるようになった。
この娘は東の峰の化け物に嫁ぐのだ。面と向かって言う者はなかったが、連れて行かれたその日に喰われてしまうというのが大方の予想だった。運よく食われなくても、穴倉にでも放り込まれて死ぬまで慰みにされるのがおちだ。
村人たちにとって彼女はもう死人と同じだった。若者達はリスと目も合わせなくなった。人身御供の娘にかかわっちゃ呪いを貰ってしまう。男達の視線に煩わされることはなくなったが、女友達にまで誘われなくなったのは寂しかった。自分が透明な亡霊になったようだ。
親友のシイラだけは変わらない態度で接してくれた。
「気にしちゃ駄目よ。みんなあなたの勇気には感謝しているのよ。村を救ったのはあなたのお父様じゃないわ。あなたなのよ」
会う度に彼女はそう言ってリスを慰めようとするのだった。
リスにとって残念なことに、天敵のビルも彼女に対する態度を変えようとしなかった。彼女が人身御供になると決まってからも、機会さえあれば嘲りの言葉を投げかけた。彼は村の若者のリーダー的な存在だった。呪いも恐れずにリスの前で卑猥な冗談を言ってみせる彼を、若者たちは尊敬のまなざしで見た。
村の娘たちの間では、次期村長であり、見た目もよいビルの噂でもちきりだ。ビルも彼女達に対しては紳士的な振る舞いで接している。子供の頃の成績のことでどうして彼女だけがここまでの辱めを受けなければならないのか、リスにはまったく理解できないのだった。
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村の夏は短い。村人たちはここぞとばかりに表に出て仕事に精を出した。長い冬に備えて屋根の修理や燃料集めなどやる事はいくらでもある。村には村人すべてを養えるだけの農地がなく、食料は南の暖かい地方から買わなければならない。猟師達は毛皮となる動物を狩るために村を離れたので、女のやる仕事はますます増えた。
リスは村の女性の下で、婚礼間近の女性として一通りの作法を習った。講師はチリという気のいい女性だ。彼女はリスに深く同情しており、少しでも彼女の気を楽にしようと授業などおざなりで一緒に菓子を焼いたり散策に連れ出したりした。どうせ化け物には花嫁の心得なんて通じない。初日に食われてしまえばそんなものも必要ない。家事から解放されるわずかな時間を、死んでいく娘の楽しみに使わせてやって何が悪い。村人達も同じように感じていたのかもしれない。野の花を摘みながら歩く二人の姿を見ても誰一人咎めようとはしなかった。
父親は事あるごとに村人から化け物との出会いについて聞かれた。いつの間にか話はすっかり大きくなっていたが、いつも最後に付け加えるのは化け物の毛並みの美しさだった。
以前、町の金持ちの家で見事なユキヒョウの毛皮を見たが、化け物の毛はそれとは比べ物にならない美しさだった。あいつを殺して毛皮を売れば一生楽して暮らせたはずなのに、銃を持っていなかったのが本当に悔やまれる。そう言って男は大げさに嘆いてみせるのだった。
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ある晩、リスが父の使いを済ませ家路を急いでいると、十人ほどの若い男達に取り囲まれた。無視されるのに慣れていたものだから、意表を突かれた彼女は逃げる間もなく取り押さえられてしまった。男達は暴れる彼女に猿轡を噛ませ手首と足首を縛ると、彼らのたまり場になっている例の古い納屋の中へと担ぎ込んだ。
柱の灯架には明かりが灯されていた。燃料に使われる獣油の強い臭いがたちこめ、じめじめとした土を押し固めただけの床の上に古い椅子や寝台が無造作に置かれている。
部屋の隅の古ぼけた肘掛椅子から黒い影が立ち上がった。
「よう、リス」
薄暗い明かりの中に現れたのはビルだった。縛り上げられた彼女の姿を見て満足げな笑みを浮かべている。
「近頃は俺とはさっぱり口を利いてくれないじゃないか。化け物の嫁に選ばれたら俺はもう用無しってわけか」
ビルは若者達からリスを引き離すと、無造作に寝台の上に転がした。
「俺もお前との縁談がなくなってほっとしてるんだ。親父はお前の親父の商才に惚れこんでるんだよ。娘と同じでいけ好かない奴だがな」
ビルは泥だらけのブーツも脱がずに寝台によじ登り、彼女の身体に覆いかぶさった。リスの顔に自分の顔を近づけると整った顔が獰猛な笑いで歪む。
「だがな、お前は見てくれだけはいい。生娘のまま化け物なんかにくれてやるのはもったいない。お前だって最初の相手は人間のほうがいいだろう」
ビルが何をしようとしているのか気づいたリスは暴れだした。だが両肩を強い力で押さえつけられ身動きが取れない。ビルの顔を鋭く睨みつけたが彼はひるむ様子も見せなかった。
若者の一人が怯えた顔で声をかけた。
「ビル、考え直したほうがいい。いくらなんでもやり過ぎだ。化け物の供物に手を出しちゃ呪いを受けるぞ」
「生贄が生娘かどうかなんてケダモノが気にすると思うのか? 怖けりゃさっさと出て行けよ」
ビルはリスに視線を戻した。不気味なほどに落ち着いた彼の表情に、リスの背筋を冷たいものが走った。生贄の娘を穢したなどと村人に知れれば、彼だってただでは済まないのは分かっているはずだ。ビルは彼女が化け物の餌食になるだけでは苦しみ足りないと思っているのだ。それほどの恨みを買うようなことをいつ彼女がしたというのだろう。
その時、勢いよく扉が開き、見張りの若者が飛び込んできた。
「まずいぞ。ジゴリの親父が来る」
「誰か知らせやがったな 」
舌打ちするとビルは寝台から滑り降りた。
「来い」
「だめだ、ビル。もう諦めろ」
リスの腕をつかみ引き起こそうとするビルを、周りの若者達が止めた。灯架の明かりが消え、リスの戒めも解かぬまま男達は小屋から消えた。
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翌日、リスを納屋に連れ込んだ若者達は罰を受けた。人身御供の娘に手をつければ化け物の怒りを買い、村が襲撃を受けていたかもしれないのだ。村を危険に晒した罪は重く、彼らは夏の終わりまで、無償で迂回路の整備をするように言い渡された。しばらくはビルの顔を見なくてすむと知りリスは安堵した。
村長にとって幸いなことに、リスをさらった若者達はすべて村の有力者の縁者だった。息子達が同罪になるのを恐れた村人達は、誰もビルを必要以上に追及しようとはしなかった。さもなければ彼の村長としての地位も危なかったかもしれない。これもすべてビルの計算に入っていたのではないかと密かに彼は疑っていた。
息子は頭が良い。悪くいえば狡賢いのだ。何事もそつなくこなし、表立って非行を働くこともない。若者達の間では人望も厚く、目上の者に対しての社交辞令も心得ている。生まれながらにして村長の器だと思っていた。そんなビルもリスが絡むととたんに分別を失ってしまう。アルスルトにリスを貰いたいと申し出たのも、彼女をビルの傍にとどめておけば息子が外で恥を晒すことがなくなると思ったからだった。だが今回の愚行には肝を冷やした。息子のリスへの執着は異常としかいいようがない。あんな娘はさっさと山へやってしまえばよいのだ。
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北の果ての村の短い夏が終わり、リスは成人した。秋分の日、リスは五人の男達に連れられて山へ入った。十日ほど前の初雪からは毎日のように降雪があり、枯れ沢沿いの急な山道は膝の深さまで雪が積もっていた。大熊岩と呼ばれる巨岩の前へくると、男達は凍った地面に杭を打ち、リスの手足を縛りつけた。逃げられて化け物の怒りを買うことを恐れたのだ。リスが動けないのを確認すると、男達は逃げるように山を下って行った。
リスは途方にくれて辺りを見回した。正午までまだ二時間近くもある。化け物と鉢合わせをするのを恐れた村人は、早めに生贄を置いて帰ったのだ。雪がまた降り始めている。身を切るような風を受けて、リスはがくがくと震えた。自分の身体を抱きしめたくても、腕を縛られているのでそうはいかない。美しい装飾の施された、それでいて防寒着の役割など果たさない鹿皮のクロークは、雪が染みこんでずしりと重い。貴重な毛皮は死んで行く娘のためには使わないのだ。
意識が朦朧としてきたとき、視界の端で何かが動いた気がして顔を上げた。真っ白な影が大熊岩の隣に立っていた。目を凝らさなければ見失ってしまいそうなそれは、雪よりも白い生き物だった。
これが東の峰の化け物か。リスは冷静に生き物を観察した。恐れや驚きといった感情は寒さで麻痺してしまっている。人に良く似た形をしたその生き物は、白い毛で覆われているだけで、角や鋭い爪を隠しているようには思えない。父が村人に語って聞かせた獰猛な野獣には見えなかった。
生き物はためらいがちに近づいてくると、リスの目の前で立ち止まった。猫のような金色の瞳でリスを見下ろす。リスも生き物の目を見つめ返した。生き物はしばらく動かずにいたが、やがてリスの手足が縛られているのに気づき、彼女の後ろに回って戒めをほどいた。
リスの腕に食い込んでいた縄を雪の中に投げ捨てると、生き物は一歩下がってまたリスを見つめる。その場で殺す気はないようだ。毛皮商人の娘として育ったリスには生き物の毛皮の価値が一目でわかった。染み一つない純白の毛皮。
――暖かそうだ。
凍え切ったリスの体は本人の意思を無視して動いた。震える足でよろめきながら立ち上がると、リスは生き物の体にしがみつき柔らかい毛に自分の体をうずめた。