その1
まだ昼前だと言うのに、空はどんよりと薄暗い。早足で歩きながら、リスは灰色に垂れ下がる空を恨めしそうに見上げた。村のすぐ東に聳える白い山々は白くけぶり、輪郭もはっきりしない。雪が降っているのだ。すぐにここにも雪が来るだろう。
道端に建つ古びた納屋をリスは早足で通り過ぎようとした。この場所が彼女は嫌いだった。いつもなら遠回りして避けるのだけど、今日はそんな時間はなさそうだ。
「おい、リス」
納屋の中から大きな声がして、中から若い男達がぞろぞろと出てきた。村長の息子のビルの取り巻き連中だ。リスは自分の運の悪さにため息をついた。彼女を毛嫌いしているビルは、顔を合わせるたびに嫌がらせをしてくるのだ。
「何の用?」
「親父は戻ってきたのか?」
ビルの腹心のダズが、リスの身体を舐めるように眺めながら尋ねた。厚手のウサギの毛皮の外套を通しても、彼女の女らしい身体の線ははっきりと分かる。リスは買い物の包みを胸元で抱きしめてダズをにらみ返した。家畜の品定めでもするような男達の視線にはうんざりだ。
「まだよ」
彼女の父親は毛皮商人だ。今は東の町へ商いに出ている。昨日までには戻ると言い残して出て行ったきり、まだ戻って来ていない。旅が延びることは今までに何度もあったので、リスはさして心配はしていなかった。だが男達の顔に浮かんだにやにやした笑いが彼女を不安にさせた。
「どうして聞くの?」
「知ってるか? お前んとこの親父とビルの親父は賭けをしてるんだ」
「え?」
「明日の朝までに戻らなければ、お前の親父の負けなんだよ」
ダズはおかしくてたまらないと言うように鼻を鳴らした。
今度は何を賭けたのだろう。父親はケチだが変に負けず嫌いなところがある。今までにも飲み仲間に乗せられて馬鹿な賭けをしたことが何度もあった。父は悪運だけは強く、まだ負けたことはなかったのだが。
「何を賭けたの?」
ダズが下卑た笑い声を上げた。釣られたように周りの男達も笑い出す。いつも先頭に立ってリスをからかうビルだけが、納屋の戸口にもたれて不機嫌に押し黙っている。不気味だ。
「お前の親父はな、お前を賭けたんだ。村長はお前をビルの嫁に貰いたいんだってさ」
リスは頭を殴られたような気がした。
「嘘でしょ?」
「それが本当なんだよ。俺の親父が言ってたんだからな」
よりによってビルが嫌っているリスを息子と娶わせようなんて、村長は気でも狂ったのだろうか。強欲な村長のことだ。資産家のリスの父親と親戚関係を結ぼうと企んでいるのかもしれない。
突然ビルがうなり声をあげた。
「何がそんなに面白いんだ」
男達の笑い声がぴたりとやんだ。彼を怒らせると後が怖いのは誰もが知っている。
「俺はな、親父には逆らえない。親父がお前を娶れと言うのなら俺は従うつもりだ。だがな、俺は生意気な口を利く妻に我慢するつもりはないからな。覚悟をしておけよ」
「まだ賭けに負けたわけじゃないわ」
リスはビルを睨みつけるときびすを返して歩き出した。
父は戻って来てくれるだろうか。村長と親戚となって彼が損をするとは思えない。もしかしたら賭けの事など忘れて、今この瞬間も東の町の娼館に入り浸っているのかもしれなかった。リスは深くため息をついた。
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ますます激しさを増す季節遅れの吹雪の中を、男は手探りで歩いていた。分厚い熊の毛皮の外套を通して、刺すような冷気がしみこんでくる。
村の東側に連なるこの山々のどこかに化け物が住みついてもう十年以上になる。山を越えずに東の町へ出るには大きく回り道をするしかない。毛皮の行商で暮らしを立てている村人たちは、評判のよい魔法使いや呪術師を雇っては化け物退治に送り込んだが、その度にみな命からがら逃げ戻ってきたのだった。
山を避けるようになった村人たちを、男は内心あざ笑っていた。おおかた北から迷い込んできた毛長熊を化け物と見間違えたのだろう。それでも普段は村人に合わせて北の迂回路を利用していた。今回は飲み仲間である村長と、期日中にすべての毛皮をさばいて戻るという賭けをしてしまったのだ。明日の朝までに戻らなければ、上の娘だけでなく多額の持参金まで巻き上げられてしまう。
東の峠を越えれば余裕で時間内に戻れるはずだったのに、昼前から降り始めた雪は勢いを増すばかりだった。化け物を恐れぬ男も予期せぬ大雪には不安を覚え始めていた。見えない木の根に足をとられ、彼は呪いの言葉を吐いた。毛皮の商いを始めるまでは毛皮猟で暮らしを立てていたというのに、こんな時に限って天候を読み違えるとは自分の勘も鈍くなったものだ。
峠を越えてもう二時間近く経つ。記憶に間違いがなければ、そろそろ枯れ沢に着いていてもおかしくない。吹雪のせいで目印の岩を見落としたのだろうか。何度目かの呪いの言葉をつぶやき辺りを見回したとき、彼は雪の中に大きな白い影が動くのを見た。
気のせいだと信じたいところだが、猟で培った彼の直感は今のは生き物だったと告げている。この時期、大型の肉食獣は繁殖のため北へ渡っている。春先の山で人が獣に襲われたと言う話はなく、男は銃を持っていなかった。何を相手にしているのか想像もつかぬまま、かじかんだ右手を外套の隠しに差し入れるとナイフを鞘から引き抜いた。
「やめなさい。そんなものでは私は倒せない」
男の背後から声が聞こえた。慌てて振り返った男は知らぬ間に吹雪が止んでいるのに気づいた。いや、雪はまだ降りしきっているのに、男の周囲だけ見えない壁に仕切られてでもいるかのように雪が入ってこないのだ。やがて壁の中から雪と同じ色をした二本足の獣が現れた。大きさも形も人によく似ているが、全身が白く長い毛で覆われている。光り輝く金色の瞳は猫のそれによく似ていた。
この獣こそが東の峰の化け物に違いない。小さく閉ざされた空間に化け物の冷たい声が響いた。
「アルスルトよ。お前も村の者ならこの山に入ってはならぬことは知っておろう」
男は恐ろしさに身を縮めた。化け物は自分の名を知っている。これは魔法だ。化け物は魔法を使うのだ。
「申し訳ございません。ここを通れば村への近道になるのです。どうしても急いで戻らなければならない理由がございまして」
恐怖に震えながらも、毛皮商人の目は化け物の白銀に輝く被毛を貪欲に見つめた。これほどの美しい毛並みをした生き物を男は知らなかった。こいつの毛皮を南の町の名主に売りつければ一財産稼げるはずだ。
化け物は感情の読み取れない金色の目を細めて男を眺めた。
「さてお前をどうしたものだろうな。禁を犯した者をこのまま帰すわけにはいかないのだよ」
男は膝を折ると化け物の足元にひれ伏した。
「お許しください。私の帰りを家族が待っております。私の稼ぎがなくなれば、年老いた母も子供たちも生きていくことができません。どうか命だけはお助けください」
化け物はのどの奥で不思議な音を立てた。
「家族か。確かお前には娘が三人いたな」
男の家族の事まで知っている。化け物は強い魔力の持ち主なのだ。男は手を背中に回すと人差し指と中指で魔よけの形を作った。だがそんな事を気に留める様子もなく化け物は話し続ける。
「私には息子が一人いる。お前の一番上の娘をこちらによこしてはくれまいか。歳が近いのでな。話し相手によいだろう」
どうやら殺されずに済むようだ。男は震える声で誓った。
「分かりました。お約束いたします。ただ…… 」
男は命乞いに条件をつけようとする自分の無謀さに驚いた。長年の商いで商人根性が身に染み付いている。
「娘は夏の終わりまでは成人いたしません。それまで時間をいただけませんか」
化け物はもう一度あの不思議な音をたてた。 こいつは笑っているのだ。そう気づいて男はまた身震いした。
「よいだろう。それでは秋分の日の正午に、大熊岩の前に娘を置いていけ」
白い腕を持ち上げると化け物は男の右側を指し示した。
「枯れ沢はあちらの方角だ。もう迷うではないぞ」
化け物の指した方角に頭を向けたとたん、男はまた荒れ狂う吹雪の中にいた。慌てて振り返ったがもう化け物の白い姿を見つけることはできなかった。
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男は村の入り口にたどり着くと櫓に上って半鐘を打ち鳴らした。大きく三回鳴らし、それを数回繰り返す。村の男達を集会場に集めるための緊急信号だ。
化け物と別れてから村に辿り着くまで、男には考える時間がたっぷりあった。
この呪われた出来事をどう自分に有利に働かせるか。 男はただひたすらそれだけを考え続けた。彼は彼なりに娘を愛しているつもりだったが、これほどの好機を逃すほどの間抜けではなかった。抜け目なく立ち回らなくては村の名士でいることなど出来ない。どうせ娘など財産の一部なのだ。うまく活用せねばもったいない。
長女のリスは美しいが気が強い。男は村でも指折りの資産家であり、欲深な村長は彼女を息子の嫁に欲しがっている。だがあのような性格では下手をすれば家の恥になりかねない。代わりに下の娘のどちらかを嫁がせるのが得策だろう。
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リスは伝言を持って来た少年に駄賃を渡し、急いで勝手口の扉を閉めた。掃き清めたばかりの土間に吹き込んだ雪を見下ろしてため息をつく。倹約に厳しい父親の言いつけで家の中の気温は屋外とさして変わらない。妹達は学校だ。病気の祖母が寝室で寝ているだけなので家の中は静まり返っていた。
少年は彼女の父が村に到着したことを伝えに来たのだった。いつもなら酒場に立ち寄ってくるのに、今日は集会場にいるらしい。半鐘が鳴ったので何かが起こったのは分かったが、女が首を突っ込むことではなかった。父が戻って話す気になるのを待とう。彼女は父が戻るまでに家の中を暖めておこうと暖炉のある居間に向かった。食事の用意さえ済ませてしまえば本の続きを読む時間があるかもしれない。
母は五年前に亡くなったので家の中の事はすべてリスが切り盛りしていた。村の者は遅かれ早かれ『病』で死ぬ。けれども母の発病はあまりにも早かった。祖母も同じ病で数年前から寝込んでいる。都で作られる薬を飲めば進行を遅らせることができるのだが、毛皮以外に売る物もない北の果ての貧しい村では、薬を買う余裕のある者はそう多くはなかった。
暇さえあればリスは本を読んだ。貧しい村で書物を手に入れるのは難しかったが、幸いなことに家には父親が商いに出るたびに持ち帰ってくる古い本がたくさんあった。父親は教養のない男で数字以外はまともに読めるのかも定かではないのだが、応接室に本が並んでいるのを訪れる客に見せたかったのだ。
彼女の好きなのは遠い遠い昔、世界がまだ魔法に満ち溢れていた時代の物語だった。当時は家事などの些細な事でさえ魔法の力で行われた。魔力で動く乗り物が空を行き交い、人々は遠く離れた世界と行き来していたと言う。
王都の寺院にはまだ不思議な道具や乗り物が保存されており、金さえ払えば見ることができるという話だった。数年前までは、王都へ行き魔法の道具を自分の目で見るという無邪気な夢を友達と語り合ったものだった。今では徒歩で二十日の距離にある王都を彼女が訪れる機会は生涯こないということは分かっている。
成長するにつれ、リスには自分の置かれた立場が理解できるようになった。女であるリスは父親の持ち物に過ぎないのだ。嫁いで家を出れば次は夫の財産となる。自分の意思など誰も気にかけてはくれない。 近頃は外を歩けば男達の視線が彼女の形の良い胸や張り出した腰に注がれる。牛や豚のように点数をつけられているのだろうと思うと惨めな気持ちになった。
リスは村で一二を争う美貌の持ち主なのに村の男達の評価は高いとは言えない。男達は頭の良い女を敬遠したのだ。賢すぎる妻は夫を愚かに見せる。
村の子供達は冬の間だけ学校へ通う。学校ではリスはいつも主席だった。最初のうちこそ村長の息子のビルが彼女と一位の座を争っていたが、歳が上がるにつれリスに大きく引き離された。それが悔しかったとみえ、ビルは機会さえあればリスをいじめた。卒業して数年経った今でも顔を合わせただけで嫌がらせをしてくる。
子供の頃はやり返したりもしたけれど、成人間近の女性が男に逆らうのは行儀の悪いことだとされていた。リスは彼の嫌がらせに耐えるしかなかった。よりによって村長は彼女をこのビルと娶わせようとしている。彼に嫁げば死ぬまで小突き回されるのは目に見えていた。何事にも明るい面があると信じて疑わないリスだったが、結婚相手にだけはどうしても希望を持てそうになかった。
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その晩遅く父親は帰宅した。その頃には春の吹雪も嘘の様におさまり、深く積もった雪が、東の空に昇った竜の星の青い光を照り返していた。すべて彼の計画通りに進んだので男はしごく上機嫌だった。
半鐘を打ち鳴らした後、男は悲愴な表情を浮かべて集会場に足を踏み入れた。暖かい家の中から呼び出された男達はひどく不機嫌だったが、男が化け物に出会った話をしたとたん、彼らの顔色が変わった。もちろん男は自分に都合の良いように話に脚色を加えた。村を襲撃しようと企てている化け物を思いとどまらせるために、娘を与える約束をしたと話したのだ。自分の命乞いのためだなどと正直に話せば、一生笑いものにされるのは目に見えている。
娘の成人までの時間稼ぎをした自分の機転に、我ながら感心する。成人すれば女の価値は何倍にも上がる。村のため貴重な財産を差し出した彼の献身も、それだけ大きく評価されるわけだ。予想通り、男は村人から感謝され同情された。男は金持ちだったので村での発言力はあったが、成り上がり者の男を快く思わない村人も多かった。それも今日で変わるだろう。
集会所を出た後、村長の家で夕食を振舞われたので腹は減っていない。男は濡れた外套をリスに押し付けると母親や娘達の顔も見ず、さっさと自室に入ってしまった。
リスは父親のそっけない態度には慣れている。外套を暖炉の前に掛け、廊下に出ると祖母の部屋から苦しそうな息遣いが聞こえてきた。
――そうだ、薬。
リスは父の部屋へ行き扉を叩いた。
「入れ」
男は今回の稼ぎを勘定しているところだった。
「あの、お薬は」
「ああ、ここにある」
男に手渡された包みの軽さにリスは驚いた。
「これだけですか?」
男は不機嫌そうに娘を見上げた。
「値段が上がったのだ。仕方ないだろう」
薬の精製は王宮仕えの魔法使いにしか許されていない。貴重なものだというのは分かっているが、これではあまりにも少なすぎる。少しずつ使えば次に父が商いに出るまでは持つかもしれない。しかしそれでは効き目があるかどうかも分からない。
リスは恨めしそうに銀貨の山を見つめた。母が病に倒れたときも父は薬に金を出すのをしぶった。母が死んでかなり経ってから、父は当時、若い娼婦にうつつを抜かしていたのだと近所の女に聞かされた。父と母は仲がよいわけではなかった。働けなくなった女に余分な金は使いたくなかったのだろう。病が長引けばそれだけ費用がかさむ。リスが家の面倒をみている今、彼は後妻を娶る必要は感じていないようだ。そこにある銀貨も娼館通いに使われるのだろう。
薬を持って部屋から出ようとするリスに男は声をかけた。
「リス」
「なんでしょうか」
銀貨から目をそらすこともなく彼は言った。
「お前には化け物のところへ行ってもらう」
唐突な父の言葉に彼女は戸惑った。
「化け物と言うと東の峰の化け物のことですか?」
「そうだ」
「何のために?」
化け物は息子の話し相手にすると言ったのだが、男はもう細かい会話の内容など覚えていなかった。
「自分の息子に与えると言っていたな。秋分の日に山へ行って貰うからそのつもりでいなさい」
彼とて自分の娘を不憫に思わないわけではなかった。だがあの状況で彼に何が出来ただろう。父親を助けるのが娘の役目だ。今まで育ててやった恩を返す機会を与えられて本望に思うべきなのだ。
リスは何も言わずに頭を下げた。父に逆らうことはできない。ただ呆然として部屋の扉を閉めた。




