第2話 はじまりはじまり
体を揺さぶるような揺れを感じ、何だろう?という考えが擡げたときには、これは自分が寝ているのだとような感覚を覚え、ならばこの揺れは誰かが僕を起こそうとしているのかなと思い当たり、その次には誰が?如何して?とさまざまな考えが次々浮かび上がり、そしてそれ以前に自分は寝ていたのだろうかということを考えるころには意識が覚醒し始め、その振動と同時に掛けられている声が耳に入ってきた。
「少年、おい、起きろ。おい、おーい」
酷く呆れたような、しかしどこか逼迫したような声音に、何かあったのかという思いを抱きながらも、ゆっくりと瞼を開き始めると、それに気がついたのか先ほどまでの声は止み、体に伝わる振動も停止し、それと同時に視界に入る景色に戸惑いを覚えつつも、ほっとした様な息を吐く音に、そちらへと視線を向ける。
「漸くお目覚めか。こんなところで寝てるとは、全く……。その服装から、まぁ、山の民だとは思うが、山の民ってのは皆そうなのか?全く、呆れるというか肝が太いというか」
聞いたことの無い言葉、見たことも無い景色、見たことの無い装束に、見たことも無い人間。押し寄せるように飛び込んでくるそれらに、まるで付いていけずに戸惑っていると、先ほどと同じ声がまた耳へと聞こえてくる。
「まぁいい。それで、少年。どうしてこんなところに居るんだ?見たところ一人みたいだが……。最近まで誰かと一緒に居たのか?それとも…何かあって止むを得ず一人でここまで来たのか?」
その声に、まるで吸い込まれるように視線を向けると、その声の主はやや心配げな顔をして此方を眺めていた。
未だ戸惑う僕には、如何答えるべきなのか、如何説明すべきなのか、それ以前にも聞きたいことや知りたいこと、さまざまな思いに考えがまとまらず、ただただ困惑し、何から話すべきなのかが解らない。
そんな僕を見ても、未だ心配げな顔をしたままのその人は、「ゆっくりでいいぞ」と僕の頭を撫でながら、それでも優しげに微笑んで見せてくれた。それに何故か懐かしさを覚え、次第に心が落ち着くのを感じる。
「ここは、何処ですか?」
「此処は、ってのは国の名か?まぁ、全部答えるか。ここはネスカ王国。今いるここは、西にあるキシム村からやや離れたところか。ほら、あそこに森が見えるだろ?森というか山なんだが。あれがキシム山だ。お前さんはあそこから来たんじゃないのか?」
尋ねては見たものの、やはり何一つ聞いたことの無い言葉が並ぶ。何一つ見覚えの無い光景を眼に、それもそうだろうとは思うものの、最後に聞いた言葉と同時に指差された所が少し気になり、そちらへと視線を向けるも、視線の先に映る光景には今まで僕が過ごしていたと思えるあの場所とは、全くかけ離れた景色しか映らなかった。
「違うのか? なら、少年は何処から来たんだ?見たところ旅の装いでも無いし、一人でここまでとなると……。何でもいい、話せることだけでもいいから、何か覚えていることを教えてくれないか?」
変わらぬ表情に、気遣いの伺われる声音。そして思い出されたのが意識を取り戻す前までに見た光景。
不可思議な空間としか言いようの無いその部屋で交わされた幾度かの言葉。
其処に居たのが誰なのかは解らないが、そこで交わされた言葉は、重く心に落とし込むように残されていた。そして、何故それを今まで思い出せずに居たのかはわからないが、不意に思い出したそれを口に乗せた。
「『ロスト』……というものを―――」
知っていますか?という言葉は不意に掴まれた肩の力に中断させられた。それを口にした瞬間、空気が変わったのが解るほどにその人から感じる気配が一転していた。
先ほどまでの表情が一気に強張り、優しげであった眼差しも鋭く探るような物となり、口調もまた厳しく責めるかのような、それでいて確たる意志を宿して。
「何処でその名を知った? それは、知ってていいものじゃない」
「何処で、というのはわかりません。全く見たことの無い、部屋、なのかな。そこで聞きました」
「…それを言ったのはどんな奴だった?何故、それをお前に教えたんだ?」
「どんな奴…見た目は、ふとっちょの、おばさんという感じでした。あの人がどんな人だったのかはわかりません。ただ、その時話した内容は…聞いても誰も信じない、でしょうね……」
その時のことを思い出しても、未だにそれが本当のことであるのかどうか、確信をもって信じることはできていない。あまりにも突飛な、というか、あまりにも断定的な物言いでもって、その人は僕にこういったのだから。
「どうも、僕の命は後五年で終わるそうです。それは、このまま過ごすならば、ということらしいですが」
それを聞いた目の前の人も、先ほど迄の責めるような鋭い視線から、やや戸惑いの色が見える物へと変えつつも、「それで?」と続きを促す言葉を向けてくる。
その声音に若干なりと優しげなものが含まれていたのは、この話を信じているからというよりは、この人の人となりがそうさせているような気がした。
「……終わりを迎える前に、ここまで尋ねてこれたなら、その運命に逆らう手伝いをしてあげる、と」
「…なんというか、想像に難しい出来事だが…それがロストと如何繋がる?」
「その人は言いました。この部屋こそが、ロストへと繋がる場所なのだと」
「それはっ!」
がばりという音が聞こえそうな勢いで僕へと掴みかかったその人の言葉は、不意に聞こえ始めた何かの走る音に中断された。
同時に向けられた視線の先には、複数の獣と、それに乗る人影が此方へ向けて近づきつつある光景。
その内の一つが一群を抜けすぐ側まで来ると同時、目の前の人物へと視線を向ける。
「此方でしたか。隊長」
「どうした?何か問題でも?」
「この先の方で怪しい人物を発見したので、どうすべきかと」
「怪しい?どんな奴だ?」
「それが…言葉が通じないもので、如何にもお手上げの状態でして……」
すぐ向かう、と言い残し、再び視線を此方へと向ける。
「少年、君にはまだ色々聞きたいことがある。少年もまだ知らないことも多いようだしな。出来るだけ待遇は良くしよう。私が答えられることは答える。その代わり、少年も私の問いに答えられるものでいい、色々教えて欲しい。それと、先ほどの話だが、あまり触れ回っていい物では無い。この話を知ってるのは、俺と少年だけ、それでいいな?」
「…ありがとう、ござい、ます。本当に、僕は、何も、知らないみたいです。僕に答えられることは全て答えます。出来ることは全てします。僕にはもう、帰る場所も……どうか、どうか僕を……」
「隊長、馬を牽いてまいり…隊長?」
言葉に詰まり、その先が続かないでいる僕の頭に、そっとやさしく乗せられた手の感触が伝わる。
「余り思いつめるな。身寄りが無いのなら俺の家にくればいい。心配するな。それより今は少し急ぎの用が出来た。悪いが一緒に来てくれ」
その言葉に頷くと、先ほど顔を見せた馬と呼ばれる獣に乗り、此方へと手を差し伸べてきた。
僕を抱きかかえるように、馬の背の上で体の内へと収めたその人は、先ほど馬を牽いてきた来た人と二言三言言葉を交わすと、連れ立つように移動し始めた。
思い出された会話の中の言葉には、僕が住みなれたあそこには、もう二度と戻れないことを示すものも含まれていた。
全てを知りたければ、そこを出るしかないのだと。それを聞いた僕は、それでもいいと、そう、確かに言ったのだ。それに困った顔を浮かべてはいたが、あの人はそんな僕の選択をしょうがないというように微笑んで頷いて見せてくれていた。
初めて乗るその馬という獣での移動は、さまざまな困惑と、身体的な苦痛もあったが、背に感じる気配と、流れる景色によって、僕には忘れがたい記憶として残っていった。