1
故郷の風の音は、いつだって変わらない。
秋。
私は、ここへ戻ってきた。
駅の外にある交差点は、記憶の中より少しだけ広くなっていた。通りには新しい街灯が立ち、商店の看板も何度か替わった。それでも、風だけは変わらない。町はずれの空き地を抜け、古い建物の隙間をすり抜け、色褪せた窓枠やトタンの看板をかすめて、最後に私の裾へと届く。その感触は、まるでそっと触れて、すぐに離れていく手のようだった。
私はその角で立ち止まり、しばらく動けなかった。
ここは私の故郷であり、そして、かつて最も徹底的に離れた場所でもある。出ていくときには、いろんなものを全部持っていける気がしていた。けれど、本当に戻ってきてみると、持ち出していたのは、その年の自分だけだったのだと知る。
病院は、昔と同じ場所にあった。
ただ、入口の青白い看板は古びていて、字はまだ読めるのに、角は年月に削られて毛羽立っていた。ロビーに入ると、鼻の奥に変わらない消毒液の匂いがした。薬の匂い、紙の匂い、そして、ずっと消えずに残り続ける静けさの匂い。ロビーの装飾はそれほど変わっていなかったが、 пластиковの花や観葉植物はどれもくすんだ黄緑色になっていて、まるで時間に黙って浸け込まれたみたいだった。
若い看護師たちが数人いた。
その若さに、私は一瞬だけひどく眩暈がした。
彼女たちは、私の知っている顔ではない。
もしかしたら、ここには昔の人たちもまだいるのかもしれない。けれど、もう私は見分けがつかなかった。廊下を急ぎ足で通り過ぎていたあの頃の顔たちは、十年という風に吹かれて輪郭を失い、今では影のように曖昧になっている。水面に書かれた文字みたいに、指先で触れればすぐ散ってしまいそうだった。
病院には、長くはいなかった。
ただ、廊下の突き当たりに立って、窓の外を一度だけ見た。
秋の空は高く、少し冷たいほど澄んでいた。遠くの木々は風に揺れ、葉が一枚、また一枚と落ちていく。そのたびに、何かの記憶まで一緒に落ちていくようだった。
それから、私は振り返って外へ出た。
出るとき、ちょうど風が正面から吹いてきた。
まるで、どこか懐かしい昔の始まりみたいに。
あの年、私は十二歳だった。
医者から心筋炎だと告げられたとき、実のところ、私はそれほど本気で怖がってはいなかった。
十二歳の子どもにとって、「病気」という言葉は、まだ輪郭のぼやけた、重くて、いろんなことを止めてしまう言葉にすぎない。つらかったのは、痛みでも、注射針でもない。動けないことだった。
かなり重い。半年から一年は走れない、跳べない、ほかの子みたいに校庭を駆け回ることもできない。
嬉しくなることさえ、少し気をつけなければならなかった。
病室の時間は、細かく切り分けられていた。点滴の液体が一滴ずつ落ちていく音は、目に見えない時計みたいだった。ときどき校庭の喧騒を思い出すと、私はつい窓の外を見上げた。そして、そこにあるはずのない動きを想像する。走ること。ボールを蹴ること。追いかけること。転ぶこと。起き上がること。そして、笑いながらまた前へ進むこと。
あのころの私は、自分だけが、いったん外の世界から切り離された箱の中に入れられてしまったように感じていた。
静かで、清潔で、そしてどうしようもなく退屈な箱だ。
やがて私は、病棟の中を少しずつ歩くようになった。
医者には激しい運動をしてはいけないと言われたが、ゆっくり歩くくらいなら大丈夫だった。母は心配性で、後ろからいつも休め休めと念を押してきた。私はうなずき、母が離れると、廊下を少しずつ進んだ。まるで手持ち無沙汰の探検家みたいに、扉の一つひとつ、窓の一枚一枚から、何か新しいものを探し出そうとしていた。
その日の午後、私は彼女に出会った。
彼女は廊下の突き当たりにある窓際に立っていて、私に背を向けたまま外の空を見上げていた。
その日、空が青かったことを、私ははっきり覚えている。
燃えるような青でも、夏に白く眩しすぎる青でもない。洗いたてみたいに澄んだ、静かな青だった。長く置かれていてもなお綺麗なガラスのような青、とでも言えばいいだろうか。
私は足を止め、しばらく彼女を見ていた。
彼女は私より一つ年下で、背は高くなかった。体つきも細かった。髪は柔らかく肩に落ちている。私の視線に気づいたのか、彼女は振り返って、先に口を開いた。
「こんにちは」
大きくはないけれど、しっかりした声だった。
私は一瞬固まって、それから慌てて言った。
「こんにちは」
彼女は少し笑った。
そのとき私はまだ知らなかった。初めて会ったときの笑顔が、何年も経ってからも輪郭だけは残り続けることを。あの表情の細部は、名前よりずっと忘れにくいのだということを。
「あなたも入院してる子?」と彼女が聞いた。
「うん」
「何の病気?」
少し迷ってから、私は答えた。
「えっと……心筋炎、って言われた」
彼女はうなずいた。理解したのか、ただその答えを受け止めただけなのかは分からない。
「私も心臓の病気なの」と彼女は言った。「でも、私はもっと気をつけないといけないみたい」
その言い方は、まるで今日の天気の話をしているみたいに平然としていた。
私は急に何を言えばいいのか分からなくなって、結局こう尋ねた。
「名前、なんていうの?」
彼女は自分の名前を教えてくれた。
小さな声だったけれど、とても綺麗な名前だった。
私はそれを、ちゃんと覚えた。
それから私たちは、よく会うようになった。
病院の中で、子どもが自由に動ける場所なんてほとんどない。まして、私たちみたいに行動を制限されている子どもならなおさらだ。だから、廊下で同じくらいの年の、しかも話してくれる相手に出会えたら、それだけでひどく貴重に思えた。
彼女は私の隣の病棟にいた。
距離は遠くなかった。歩いて数分で行ける場所だった。
あとになって知ったのだが、彼女はあまり自分から人に話しかけるほうではなかった。冷たいからではなく、体があまり丈夫ではなくて、大半の時間を静かに過ごさなければならなかったからだという。けれど、私と話すときの彼女は、ずっと前から知り合いだったみたいに、落ち着いていて自然だった。
次の日、私はまた彼女のところへ行った。
彼女はもうそこにいて、窓辺に座り、何枚かの色紙を手に、何かを折っていた。私は入口に立ってしばらく見ていたが、やがて彼女が顔を上げて、私に気づいた。
「来たんだ」
「うん」と私は近づいた。「何してるの?」
「折り紙」
彼女は手元のものを見せてくれた。それは小さな鶴だった。羽はきっちり折られていて、尾だけ少し曲がっている。まるで、飛ぶことを覚えたばかりみたいだった。
「私もできる?」と私は聞いた。
「いいよ」
彼女は本当に、一つひとつ丁寧に教えてくれた。
彼女の手は細くて、動きもやわらかかった。紙の角をどう押さえるか、どう合わせるか、折り目に沿ってどこまでゆっくり指を滑らせるか。だけど私は不器用で、いつもどこかを間違えた。何枚も折り損ねる私を見ても、彼女は怒らなかった。ただ笑って、手を伸ばして直してくれただけだった。
「ほんとに不器用だね」
少しだけ悔しくて、私は言い返した。
「初めてだから」
「じゃあ、もう一回」
それで私は、もう一度折った。
また一回。
また一回。
ようやく、それらしい鶴が一羽できるまで。
彼女はそれを見て、うなずいた。そしてとても真面目な顔で言った。
「うん、いいね」
胸の奥に、小さな嬉しさがふっと灯ったのを覚えている。
「鶴なら、飛べるの?」
「飛べないよ……」
「じゃあ、紙飛行機にしよう!」
入院してから初めて、時間がそこまでつらく感じなかった。
それから私たちは、ほとんど毎日会うようになった。
廊下で会うこともあれば、窓辺で会うこともあったし、ただ扉越しに挨拶するだけの日もあった。病棟の毎日はもともと遅い。終わりを拒む雨みたいに、のろのろと続いていく。けれど、同じように閉じ込められた相手がいるだけで、待つことさえ少しだけ軽くなった。
私は彼女に、学校のことを話した。
休み時間の廊下の騒がしさ、体育の授業で誰がいちばん速いか、下校途中にあるアイスを売る店、校門の前でいつも渋滞している自転車、黒板に落ちたチョークの粉が光の中でふわっと舞うこと。
彼女は本当に熱心に聞いてくれた。
ときどき、「本当に? 学校では、みんな校庭を走るの?」なんて訊いてきた。
「うん」
「じゃあ、何して遊ぶの?」
「いろいろ」
「そっか。いいなあ」
彼女が「いいなあ」と言うとき、その声はいつもとても小さかった。羨ましがっているというより、まだ見たことのないものを、私の代わりに大切に預かってくれているみたいだった。
そして彼女も、別のことを教えてくれた。
小さなうさぎの折り方、星の折り方、尻尾の少し上がった小さな舟の折り方。絵も描いた。彼女の絵はうまかった。線がとてもやわらかくて、まるで紙の上の世界を驚かせないように描いているみたいだった。
一枚の絵を見せてもらったことがある。
そこには海があった。山があった。長く長く伸びる道があった。そして、ぼやけた城壁のようなものもあった。海は広く、空は青かった。あの日、窓の外に見たあの色に似ていた。
「これ、どこなの?」と私は聞いた。
彼女は首を振った。
「ただの想像」
「こういう場所に行きたいの?」
「うん」と彼女はうなずいた。「行きたい」
その絵を見て、私はふと思った。なるほど、“行きたい場所”って、先に絵にできるものなんだ、と。
それから私は、彼女が絵を描くのをよく見ていた。
紙を平らに置くこと。うつむいたときの静かなまつ毛。ペンを持つ指先。彼女の表情は、ずっと先の何かを真剣に決めているみたいだった。あのころの私はまだ知らなかった。子どもの頃に口にする「行きたい」は、ただの気まぐれではないことが多い。未来を先に紙へ書きつけるみたいな、固い願いなのだ。たとえ最後に辿り着けなくても、少なくとも形だけはそこに残る。
ある夕方、窓の外の風はやわらかかった。
夕陽がガラス越しに斜めに差し込み、病室のものすべてを淡い金色に染めていた。彼女はペンを置くと、ふと思い出したように私を見た。
「約束しようよ」
「約束?」
「私が元気になったら」
少しだけ間を置いて、彼女は言い直した。
「私たち、両方とも元気になったら」
「それで?」
彼女はすぐに小さく笑った。目の中に、ほんの少しだけ光があった。
「そしたら、一緒にお祝いするの」
「何を?」
「やりたいことが、ちゃんとできるようになったのを」
彼女は少し考えてから、こう付け加えた。
「今は食べられないものを食べに行くの」
私はまばたきをした。
彼女の身体には本当に、たくさんの制限があった。医者からは、食べてはいけないものをいくつも言い渡されていた。十二歳の子どもにとって、それは小さいことではない。彼女は軽い口調で言ったけれど、その願いは、少し冒険みたいで、それでいてまったく無理な話にも聞こえなかった。
私はうなずいた。
「うん」
でも彼女は言った。
「ちゃんとした形にして」
「どうやって?」
「書くの」
彼女は私を見た。真面目な目だった。まるで、とても重要な条項を宣言するみたいに。
「小説の約束って、だいたい証文にするでしょ」
私はそれに少し笑いそうになった。でもあまり露骨に笑うのもなんとなく恥ずかしくて、結局はカバンからノートを取り出し、二枚ちぎった。
私はとても真剣に書いた。
「契約」という字を書くとき、まだ手が少し震えていて、文字はわずかに傾いてしまった。けれど、書き直さなかった。その下に約束の内容を記した。まるで極めて厳粛な宣誓文みたいに。
――十年後のこの日、この入口で再会すること。そのとき、互いに元気になっていて、一緒にお祝いすること。彼女が食べられなかったものを、一緒に食べに行くこと。
書き終えると、私はそれを彼女に渡した。
彼女は長いこと、その紙を見つめていた。
それから、自分のノートから一枚の絵を取り出して、私に差し出した。
「これ、あげる。お返し」
私は受け取った。
海辺の絵だった。青い空、細く長い道、その先にある、ずっと遠い場所。風まで描かれているみたいで、海面には小さな揺らぎがあった。
「ここが、私の行きたい場所なの。島の海岸」
私はその絵を、そっと本の間に挟んだ。まるで、私たちだけが意味を知っている証みたいに。
その夜、病室に戻ってからも、私は何度もその紙を見返した。
あの二つの字を見つめているうちに、作業帳に書いただけの約束でも、人はこんなに安心できるのだと知った。
まるで誰かが、未来の一部を先に預かってくれたみたいだった。
――
三週間後、私は退院した。
医者は、経過は比較的安定していると言った。これからは薬をきちんと飲んで、無理をせず、少しずつ戻していけばいい、と。母は傍らで荷物をまとめながら、やっと息がつけたというような疲れた声を出していた。けれど私は、どうしようもなく物悲しかった。
病室を出るということが、こんなにも何かの日々を失うことに似ているなんて、そのとき初めて知った。
それでも私は、彼女に会いに行った。
彼女は窓辺に座っていて、まるで私が来るのを知っていたみたいだった。私の姿を見ると、あまり驚いた様子もなかった。
「行っちゃうんでしょ?」と彼女が聞いた。
「うん。今日退院」
彼女はうなずいた。
「そっか。よかった」
私は入口に立ったまま、何を言えばいいのか分からなくなった。
「また会いに来るよ」と言うべきなのは分かっていた。でも、病院でのそういう約束は、どうしても少し脆く聞こえる。次に会えるのがいつなのか、そしてそのときお互いがまだ今日と同じでいられるのか、誰にも分からない。
結局、私はこう言った。
「また、会いに来る」
彼女は私を見て、少しだけ笑った。
「うん」
その日は、あまりたくさん話さなかった。
ただ、あの窓辺に立って、外の木を見ていた。秋の木々はすでに黄色くなり始めていて、風が吹くたびに一枚、また一枚と落ちていく。それは、とても静かに落ちた。何かを驚かせないようにしているみたいだった。
私が立ち去るとき、彼女は手を振らなかった。
ただ、そこに立って、静かに私を見送っていた。
その瞬間、私は理由の分からない感覚に襲われた。
何かはもう始まっているのに、同時に、何かがかすかに離れていく。
その後、私は実際に何度か彼女に会いに行った。
そのたびに、私は小さなものを一つ持っていった。薄い本、色鉛筆、あるいは外で買ってきたお菓子。彼女はいつも嬉しそうだった。食べられないものもあったけれど、それでもそれらをベッド脇にきちんと並べて、大事にしまうみたいにしていた。
私たちは、本当の友達みたいに話した。
彼女は学校のことを聞いた。薬をちゃんと飲んでいるかを聞いた。私はもう少しなら走れるようになったのかと訊かれた。私は外の世界の話をし続けた。街路のこと、店のこと、あのころの私たちにはまだ遠い、普通の日常のこと。
けれど、そんな日々は長くは続かなかった。
ある日、私はいつものように病院へ行った。
けれど、彼女の病室のベッドは空っぽだった。
シーツは新しいものに替えられていて、まるで、そこに誰もいなかったみたいだった。
私は入口でしばらく立ち尽くしてから、看護師に尋ねた。
看護師は記録をめくり、彼女は転院したのだと教えてくれた。
「どこに?」
「南の街です。お父さんが引っ越しを手配したみたいで、急だったんですよ」
「彼女は……いつ行ったんですか?」
「昨夜です」
私はしばらく黙っていた。
「何も言ってなかったんですか?」
看護師は少し考えてから、首を振った。
「さあ……たぶん、なかったと思いますよ」
私はその場から動けなかった。
胸のどこかが、急にぽっかり空いたみたいだった。
彼女は、私に言わなかった。
あるいは、言う時間がなかった。
どちらのほうが、より苦しいのだろう。
私たちは、友達じゃなかったのだろうか。
その日の午後、私は一人で廊下の突き当たりまで行き、あの窓辺に立って外の空を見上げた。
空は、やっぱり青かった。
けれど、風はもっと冷たくなっていた。
私はカバンの中から、あの「契約」と書かれた紙を取り出した。何度か折ったせいで、端は少し柔らかくなっていた。中には、あの海辺の絵がまだ挟まっている。色は、相変わらず鮮やかだった。
そのとき私は、ふと思った。
約束というものは、必ず誰かが果たすから意味があるのではないのかもしれない。
それはむしろ、ポケットの中に入れた小石のようなものだ。
長い、長い年月のあいだ、ずっとその重さを忘れられない。
捨てられない。
風が廊下へ吹き込んだ。カーテンがわずかに揺れた。まるで、遠いどこかで誰かが、そっと扉を閉めたみたいだった。
そして私はそこに立ったまま、初めて、秋は本当に人を寒くさせるのだと知った。
私は、寒さが苦手なわけじゃなかったのに。




