(九)祀られていたモノ
ガタン、と戸が音をたてた。風のせいだったのか、少し開いている。その隙間を見つめ、どうしても確かめたくなった。この先に何があるのか。祖母が私達を近寄らせなかった理由は何か。
脱いで並べた靴を再び履くと、戸に近寄る。隙間に顔を寄せると、僅かに、あの獣のような臭いがした。顔を引くと、一度兄が入っていった部屋の入り口に目をやる。奥から母と話す兄の声と、ガタガタと物音がする。
ガタン、ともう一度戸が音をたてた。間近で聞こえた事に驚いて、戸を見つめたまま後ずさった。音をたてた原因が何かわからない。風ならば隙間から、こちら側に吹いてくるはずなのに。
拒まれているのか、それとも誘われているのか。恐る恐る戸に近寄る。一つ深呼吸をすると、思いきって戸を開けた。一瞬、祖母の怒り顔を思いだし、目を瞑る。風は無い。草の匂いと、木の朽ちた匂い。
ゆっくり目を開けると、手入れのされていない木の間に、奥へ進める隙間があった。地面には伸びっぱなしの雑草の中に、苔の生えた飛び石が続いている。
然程広くは無い裏庭に出た。日は入るのに何故か肌寒さを感じる、古いブロック塀に囲まれた細長い敷地。僅かに感じる獣の匂いは、飛び石の続く奥からするようだ。
一つ目の飛び石に足を進める。苔で滑らないように、慎重に足元を見たまま、二つ目の飛び石に移ろうとした時、自分の先を歩く裸足の痩せた足が、三つ先の飛び石から足を離すのが見えた。
慌てて視線を上げたが、目の前には誰もいない。葉の繁った木に囲まれた、少し暗い空間が続くだけだった。やはり、誘われていると感じた。心細さに見舞われたが、それでも奥に進もうともう一つ飛び石を踏む。
一つ一つゆっくりと飛び石を踏みしめ、先に進む。すぐに獣の臭いと朽ち木の匂いが強くなり、少し開けた場所で飛び石が終わった。
最後の石の上で立ち竦む。目の前には、薄汚れ苔むしたブロック塀があり、その前に朽ちた角材が積み重なっていた。獣の臭いは数段強くなり、その発生源は角材の下のようだった。
袖口で口元を押さえ、しゃがみこんで積み重なった角材をよく見る。サイズは様々で、どれも短い。黒く変色し、腐って潰されたような折れ方をしていた。隙間に白い陶器の破片もある。
肩を叩かれ、思わず飛び上がりそうになって崩した体勢を、後ろから支えられた。兄がいつの間にか、そばに来ていた。一瞬早くなった呼吸が落ち着くと、屈んで角材の山を見つめる兄の腕を掴む。
祠だった、と兄が呟く。昔、ここに建っていたのは小さな祠だったと。何かを持ってここに向かう祖母の後を、こっそり付いて来て、見たんだと言う。
持って来た物を供え、一心に何やら拝む祖母が怖くなって逃げようとした所を、見つかって叱られたのだと言う。あの時も嫌な臭いがしていたのだと。
そして、そばに落ちていた木の枝を拾うと、崩れた祠だったと言う朽ち木の山を掘り出した。腐っていた角材は、簡単に形を無くし、獣の臭いが強くなる。顔をしかめながら枝を動かす兄の手元を見つめ、これで終わると確信していた。
角材を退けて、出てきたのは、小さな獣の亡骸だった。それに被さるように、もう掠れて読めない文字が書かれた木片。御札か何かだろうか。
その獣に見覚えがあった。ペットショップや、動物園で見たのでは無い。先日、兄の部屋で猫と争ったモノが落とした毛と同じ色の体毛、そして、昨夜自分の前に現れた祖母の頭部の下に付いていた極端に小さな体。あのモノの正体は、これに違いない。
何故、この小さな獣が祖母の顔をして、自分を襲ってきたのか。自分だけでは無いだろう。恐らく兄も、そして祖母までも。怪訝な顔をしていたのに気づいたのか、兄は朽ち木を亡骸に再び被せると短く手を合わせ立ち上がった。
訳がわからないまま、同じように手を合わせて、来た飛び石を戻る兄の後を慌ててついて行く。一つ石に足を滑らせよろけた。一度、立ち止まり祠の跡を振り返る。何故だか空気が変わった気がした。獣の臭いはしない。
僅かに煙草の匂いがして、空を見上げた。同じように兄も立ち止まり上を見ていた。昨日と同じように煙のようなものが、空へ消えて行く所だった。そして、小さく掠れた声で、ありがとうと聞こえた気がした。
兄が再び歩き出すのを追いかける。戸を抜け、土間を通り、靴を脱いで部屋へ入る。仏壇と炬燵のある居間を通り、襖を開けると祖母の寝室だった。この部屋に入るのは初めてだ。
ベッドに、和ダンス。座卓が置いてあるだけの、ガランとした部屋。すぐに、ベッドの脇に座って壁を見つめる母の姿が目に入った。兄と自分に気付き、振り向いた母の目は真っ赤になっていた。
泣いていたのだろうか。すぐに壁に視線をもどした母につられ壁を見る。そこには、たくさんの写真が貼られていた。兄に促され、近づいてみる。セピア色になった古い写真達。その全てに、私達家族が写っていた。
一番大きな写真は、父と母が並んで立つ前に、幼い兄を抱いて座る僅かに微笑む祖母。そして、祖母の隣に、産まれたばかりの私を抱いて笑う今は亡き祖父の姿があった。
大きな写真を囲むように貼られていたスナップ写真の一枚は、泥だらけの顔で笑う兄と自分を抱き上げる祖父が写っていた。幼い兄と自分の手をひいていた、あの大きな手は。二人の小さな長靴の間に並べた、ゴム草履の持ち主は。
一番新しい写真は、布団から半身をお越し、こちらを見て笑う浴衣姿の少し痩せた祖父の姿だった。その写真に写る浴衣に手を這わせる。この、浴衣の模様は。
そうだ。あの煙草の匂いは、祖父の匂いだ。兄と私がここに来ると、いつも暗くなるまで外で遊んでくれた、大好きだった祖父の。
肺を悪くして寝てばかりになっても、会いに行けば、よく来た、と頭を撫でて笑って迎えてくれた。大好きだったのに、何故、忘れてしまったのだろう。
あのヒューヒューと息が抜ける喉の音は、泊まりに来た日に一緒に寝た布団の中で、祖父の腕の中で聞いていた音だ。規則的なその音に安心してすぐに眠れた。祖父が元気だった頃は、ここに兄と共によく訪れていたのだ。
祖父が亡くなると、元々気難しかった祖母は、更に難しい性格になり、こちらからは、全く会いに行かなくなってしまった。時々父を訪ねて祖母が来ると、二階に上がり顔を合わせる事もしなくなってしまった。
壁の写真の何枚かには祖母も写っていた。こうやって笑っていた時もあったのだと、胸が痛くなる。ぎこちなくだけど、笑うその姿は今の祖母からは想像できない。この写真達を祖母は毎晩眺めていたのだろうか。
不意になった電子音に、はっとした。兄と同時に母を見る。携帯を取り出し応答した母が、また少し涙ぐんでこちらを見る。携帯を持ったまま、ホッとした表情で、祖母の意識が戻ったと、もう心配無いと言った。
張り詰めていた緊張が切れ、祖母の寂しさ、祖父の気持ち、それぞれが込み上げた。涙ぐむ母にすがり崩れる。涙が止まらず、嗚咽も堪えられない。兄も天井を見上げ、涙をこらえているように思えた。