(八)連れていくモノ
結局、その夜両親が帰ってくることは無かった。代わりに兄が、私の部屋で寝ることになった。落ち着いたつもりだったが心配してくれたようだ。床にそのまま寝ようとした兄に、母が使う客用布団を勧め、自分もベッドに横になった。身体のあちこちが痛み、眠る体勢を整えるのに手間取る。
何度か寝返りをうち、壁を背にした状態で落ち着くと、寝息をたてている兄が視界に入った。仰向けに眠る兄の胸の上に猫が丸まっていた。少し寝息が苦しそうに見えて、苦笑しながら右手を伸ばして猫を起こす。ゆっくりと兄の上から降りると、ベッドに飛び乗り、足元に丸まった。
兄の寝息が落ち着いたのを、確認して目を閉じる。同じようにここで母が眠った時は、壁側に向いて寝た。母がそばにいることが、嫌でたまらなかった。一人きりの空間を邪魔される気がした。なのに今は、兄がそこにいることが嬉しかった。恐ろしいことがあったこの部屋で穏やかに眠れる。兄がいる、それだけのことで。
いつの間にか眠っていたようだ。眩しさに目が覚めた。まだ、起きなくてもいいくらいの早い時間だった。いつもよりも、かなり明るい気がするのは、自分の気持ちの高揚加減の違いかもしれない。
もう兄も、猫もいなかった。まだ少し痛む身体を起こして立ち上がると、部屋の扉を開ける。一階から人のいる気配がして、ほっとした。昨日は、怯えて進めなかった廊下を通り階段を降りた。途中立ち止まり、最上段を見上げる。そこには何も無く、いつもの階段があるだけだ。
思わずほっと息を吐き、そのまま下へ降りる。リビングの扉を開けようと手を伸ばした時、兄の声が聞こえた。電話で話しているようだ。話し方から相手は母だろう。電話を切った気配を確認して、ドアを開ける。こちらを向いた兄は一瞬躊躇して、祖母が倒れて病院に運ばれたと告げた。
心臓が激しく脈打ち、息の仕方を見失う。頭の中で、昨夜のあの声が繰り返し、繰り返し響いていた。
連れていく、と。
あれはそう言っていた。連れていくのは、祖母のことなのか?命を奪うということなのか?頭の中で思考が絡まり、足に力が入らず座り込んだ。兄に支えられソファに座らされる。隣に座った兄に肩を抱かれても寒くて仕方なかった。
自分が傷付けられる恐怖とは違う、新たな恐れが襲う。違う。そんな事を望んだ訳では無い。祖母を疎ましく思っていた事は事実だ。だけど、だからと言って死を望んだりはしない。両親の不仲だって、祖母のせいだけでは無い。
祖母のいる病院に連れて行ってと兄にすがる。兄が頷くのを確認すると、顔を洗いに洗面所に向かった。兄が二階に上がる足音が聞こえ、自室に入った気配がした。蛇口を捻り、冷たい水のまま、何度も顔を洗う。濡れたままで鏡に映った顔は、青白く自分の顔では無いかのようだった。
玄関の鍵を外から開ける気配がして、洗面所を出る。足早に入ってきたのは、昨日と同じスーツのままの、疲れた顔をした母だった。父の着替えと、祖母の入院の支度をしに、帰ったと言う。祖母の意識はまだ戻らないらしかった。
学校は?と訪ねる母に、今日は土曜で休みだと告げた。手伝う、と言った私に一瞬驚いて、少し笑うと母は、ありがとうと言いながらリビングに入っていった。兄が父の着替えを用意する間に、シャワーから上がった母が支度を済ませるのを待って、3人で祖母の自宅へ向かった。
祖母の家に来るのは、もう何年ぶりだろうか。子供の頃は行事の度に訪れていたはずだ。昔、兄と遊んだ記憶が蘇る。ドジョウやザリガニを捕まえた用水路はもう使われていない。養蚕をしていた家屋は、屋根裏の広い特徴的な構えをしている。
玄関の引戸を入ると、懐かしい匂いがした。陽の入らない土間の冷たい空気に腕を擦った。傷付けられた肘と手首が少し痛んだ気がする。
広い土間の片隅に、子供が使うような小さなバケツが転がっていた。兄が覚えていると、それを拾い上げた。おそらく十年近くも放置されていたはずのそれは、つい最近も使ったように、薄い埃しか積もっていない。
そのバケツを見つめていると、遠い記憶が蘇った。しわのある、日焼けした大きな手。これがタニシだと、手のひらに乗せた貝を兄の持つバケツに入れる。泥だらけの自分と兄の手を引いて畦道を歩いた。あれは、あの手は。
ぼんやりと土間に立ち尽くす私を手招きながら、兄が裏口の戸を開けた。その軋んだ音に何故か嫌な気持ちになる。開いた戸を抜けるのを兄も少し躊躇していた。
昔、兄とここを抜けて裏庭に出ようとした時、いつもよりも数段きつい声で、祖母に怒鳴られた。この先には行くな、と。一度だけ目を盗んで兄が裏庭に入った時には、顔が腫れるほど祖母に叩かれていた。兄はあの時の事を思い出したのかもしれない。
戸を抜けて、先に進もうとした兄の腕を引っ張り、引き留める。この先には行ってはいけない気がした。祖母があんなにも近寄らせないようにしていた場所。何があるのか好奇心もあった。何があっても、もう驚く事は無いだろう。それだけの体験を、ここ数日していたから。
戸の向こうから、風が入る。僅かだったが、あの獣のような臭いが混じっていた。この向こうにあのモノが何なのか、解明する何かがあるようだ。それでも、足は進まない。どうしても、昨夜の恐ろしい祖母の顔が思い出されて、動く事が出来なかった。
奥の部屋で、祖母の着替え等を用意していた母が兄を呼ぶ。今行く、と返事をして戸を閉めると、兄は母の所へ行ってしまった。一緒に着いて行こうと靴を脱ぎかけて、見下ろした土間に、古く大きなゴム草履を見つけた。これを履いていた人は。
懐かしい気持ちに鼻の奥がツンとする。脱いだ靴を草履の横に並べて、その隣に兄の靴も並べる。この並びに覚えがあった。あの頃は、私と兄の小さな長靴を並べていた。
ここから3人で、バケツと網と、竹で作った釣竿を持って、田んぼの畦や用水路周りで日が暮れるまで走り回った。魚や虫を捕まえ、花を摘んで。