(七)守るモノ
恐怖と驚きで、目を閉じることが出来ず、痛みで出た涙で祖母の顔が歪む。呼吸も上手くできない。次の瞬間、首に圧迫を感じ呼吸が止まる。力を込めても身体は動かず、抵抗もできない。このまま死ぬんだ。何故、祖母が自分を殺めようとするのか、理由もわからないままで、死んでしまうんだ。もう、どうでもいい。自分なんて、死んでしまってもいい。
どうせひとりぼっちなんだから。自棄になり、諦めたせいで力が抜けた時、右側から黒い塊が唸り声を上げて、祖母の顔を目掛けて飛び付いた。甲高い声で叫びながら、祖母の顔が転がり落ちた。
同時に身体に自由が戻る。何度もまばたきをして、何度も咳き込みながら、転がる祖母の顔と、黒い塊を目で追う。唸り声をあげて、体全体でしっかりと噛みついている猫と、苦しそうにのたうつ、祖母の頭部だけを。
叫ぼうとした喉は、乾いて貼り付き、音が出ることは無かった。あれは、祖母では無かった。祖母の顔をしているけれど、あれは祖母では無い。乱れた髪の下に獣のような毛皮が見える。頭部に対して極端に小さい身体。恐ろしく異質なその姿から目が離せなかった。今、自分の身に起きている事が、何なのかも認識できずに、ただそのモノを見つめていた。
それは奇妙な動きで猫を振り落とし、再びこちらに向かって、叫びながら飛びかかってきた。恐ろしい形相の祖母の顔で。一瞬の事で、避ける事もできず、ただ目を瞑って、防御をしようとして出した手には何も触れなかった。
唸り声では無い猫の声がしたのと同時に、祖母の叫び声も止まる。静かになった部屋に、自分の呼吸音に混じって、あのヒューヒューと喉を通る息の音が聞こえた。猫がベッドに上がり、身体の脇に寄り添う気配がして、ゆっくり目を開ける。
獣の臭いが薄れて、代わりに煙草のような匂いが微かにし始めた。半身を起こし、部屋の中央に向けた視界に浴衣姿の背中が見えた。丸まって何かを抱き込んでいるようにして立っている。
祖母の顔をしたモノが見当たらない。獣の臭いが薄れていき、煙草の匂いが強くなる。それに伴い、恐怖に怯えて、速くなっていた鼓動が落ち着いてきた。この匂いはどこか懐かしい気持ちになる。目の前に突然現れた浴衣姿のモノに、何故か恐怖では無い、不思議な安心感を感じていた。猫がベッドを降りて、その足元にすりより、そのまま部屋を出て行く。手を伸ばせば触れられそうな位置にある、その浴衣の柄にも、見覚えがあった。
しばらく見つめていた、丸まっていた背中が伸び、それがゆっくりと振り返り始めた時、玄関の扉を開く音が聞こえた。ビニール袋の擦れる音と、階段を上がる足音に、思わず部屋のドアを見る。少し開いた扉の隙間に光がさして、部屋の中にオレンジの筋を作っていた。辿った先にいたはずの浴衣姿のモノは消えていた。見渡す部屋の中には、何もいない。ぼおっとした頭の中に直接入ってくるように、低く掠れた声が入ってきた。連れていく、と。
コンビニ袋をぶら下げて、兄がドアを開けた時に、すまなかったと、もう一度声が聞こえた。兄が一瞬ギョッとして、部屋を見回し、慌てて照明のスイッチを押した。もう一度部屋を見回し、少し悲しそうな顔をして、こちらに近づいてきた。兄にも聞こえたようだった。
兄の手が触れた瞬間、恐怖と、何故か悲しい気持ちと、自分を置いてどこかへ行ってしまった兄に対する責めの気持ちで、また涙が溢れた。自分を抱きしめる兄の丸まった背中に手を回し、さっきの浴衣の背中を思いだす。あの背中は、祖母の顔をしたモノを抱きしめていたのではないか。こうやって、兄が自分にしているように。
あの浴衣姿のモノは、私を助けてくれた気がしていた。でも、少し違う。私だけでなく、祖母の顔をしたモノを守っていたのかもしれない。泣き止んだ顔を手で拭って、兄を見上げる。抱きしめた腕はそのままで、兄は天井を見つめていた。視線の先を辿って、さらに見上げると、白い煙草の煙のようなモノが揺れながら消えて行った。
暫くそうして兄の腕の中で天井を見上げていた。静かでいつもと何も変わらない、自分の部屋。さっきあったことが、まるで夢だったかのように。涙でぐしゃぐしゃになった顔を兄のTシャツに擦り付けると、大袈裟に身を引いた兄の腹が大きな音を立てた。
少し赤くなった兄の顔を、じっと見て思わず吹き出した。ほっとして、可笑しくて、ベッドの上で笑い転げる。兄がいる、その事実が、私を素の自分に引き戻したのだ。涙が出るくらい笑って、枕に顔を埋める。笑いすぎだ、と兄に頭を叩かれ、やっと起き上がった。兄がコンビニ袋を開いて、こちらに向ける。中には甘そうな菓子パンにデザート、ジュースが袋いっぱいに入っていた。
完全には恐怖から抜けきれていないのか、目の端に床に散らばる猫の毛が気になるのか、食べ物が甘すぎるせいか、あまり進まない自分に反して、兄は次々とパンを胃袋に収めていく。
獣の臭いも煙草の匂いも、もうしない部屋の中に甘い匂いが充満していく。出ていった猫が再び上がって来て、兄のそばで、パンのクリームを舐めていた。あまりにも、普通な日常の風景に、長い夢を見ていたような、そんな気分になった。泣き止んでから、兄は何も聞いてこないし、私も何も話さなかった。ただ、二人で、二人と一匹で黙々と、まるで与えられた課題をこなすように、食物を消費していた。