(六)呪いを唱えるモノ
体を揺すられ覚醒した。目の前には、驚き心配そうにこちらを見つめる懐かしい顔。少し痩せた兄に安堵し、気が緩んだ。涙が溢れ止める事ができず、すがりつき泣きわめいた。
両親の事、祖母の事、そして自分を傷つけたモノの事を、泣きながら話す私の言葉を兄はじっと聞いていた。おそらくは、ほとんど聞き取れず訳がわからなかったに違いないが、兄は何か考えこむようにして、私の背中を擦っていた。
少し落ち着いてきた私を立たせると、支えるように二階へ上がらせた。腰と背中が痛むがなんとか自分の部屋へ上がりベッドに横たわる。肘はまだ違和感があるが手首の痕は薄くなっていた。
医者に行くか、と兄に聞かれ首を振った。ただの打ち身だ。階段を上がれたから大丈夫だろう。それよりも今はただ、休みたかった。今なら一人ではない。ベッドの脇に立つ兄の手を掴み、ここにいるよう頼んだ。
兄の右手の平が瞼の上に被さる。温かさに安心して目を閉じた。思えば家族と触れるのも久しぶりだった。母や父には近づく事さえ、出来ない日々が続いていたから。同じ屋根の下にいても、ひとりぼっちな気がしていた。どんなに恐ろしい目にあっても、頼れるところが無ければ、人は強くなるしか無いのかもしれない。
両親の前では泣く事もできなくなっていた自分にとって、兄はただ一つの支えだった。私はずっと彼の帰りを切望していたのだ。望みは叶い、兄がいる安心感に身体の痛み、疲労、様々なものが睡魔を誘う。涙が流れる前に眠りに落ちた。目覚めたら何もかもが夢で、昔のような両親と兄がいる穏やかな朝であれと、願いながら。
目覚めた時には、部屋は真っ暗になっていた。兄はいない。鈍く痛む身体を起こし、腰や背中を庇いながらベッドの端に座るようにして、時計に目をやる。もう夜になっていた。
兄は部屋に戻ったのか。ゆっくり立ち上がるとドアに向かう。母の布団は部屋の隅に畳まれたままだ。ドアを開けて廊下に出る。静寂に少し怯んだ。何の物音もしない。昼間の好きな静寂とは違う。父は休んでいても母はまだ階下にいるはずなのに、何の気配も感じない。
部屋を出てすぐに立ちすくんだ。昼間の恐怖が甦る。兄の部屋のドアを見た。閉じたドアの隙間から漏れる光は無い。寝ているとは思えなかった。おそらく、いや間違いなく兄はいない。
途端に不安になり、兄を呼ぶ。何度も叫ぶように。けれども、身体を進める事はできず、床に手をつく。少し痛む肘に身体に刻まれた恐怖心が再び沸き上がる。自分の声以外は何も聞こえない。静寂に追いたてられるように這ったまま部屋に戻る。
何故、誰もいない?母は帰っていないのか。あんなに頼んだのに、兄は自分を置いて、またどこかへ行ってしまったのか。一人でも立てていたはずなのに、少しだけ会えた兄に、心が寄りかかってしまった。怖い。淋しい。助けて。うずくまり、自分で自分を抱き締める。涙が溢れ、嗚咽がもれる。兄の名前を何度も呼ぶ。怖い。淋しい。助けて。
とととっと階段を上がる小さな足音が聞こえ、顔を拭いながら上げる。閉めたドアの外で鳴く猫の気配に、何故か少しほっとする。人でなくても、生きている存在が恋しかった。立ち上がりながらドアを開けて猫を部屋に入れる。足元にまとわりつく猫の耳には、大きなかさぶたができていた。昼間やはり怪我をしたのだ。
そこに触れないように撫でると、満足そうに目を細め、すっと手をすり抜けてベッドの上に丸くなった。そばに居てくれるようだ。こんな小さな生き物でも、一人でないことが心強かった。ドアを少し開けて、もう一度階下を伺う。誰もいないのだ。それはわかっているのに、下に降りて確認することで、またひとりぼっちだと認めるのが怖かった。
ドアを開けたまま、ベッドに潜る。背中に丸くなる猫の温もりを感じ、目を閉じた。兄は何故、ここに居てくれないのだろうか。もしかしたら兄も、あのモノの存在を知っているのかもしれない。あれは兄の部屋にいた。自分より先に遭遇していても、おかしくはない。考えながら背中に温もりを感じ、うとうととしていた。猫の喉がなる音を聞きながら。
急に入ってきた音に、目を開けた。ドンっと言う階段を上がる音。すぐに兄や母では無いことに気づいた。足音に重なるように、何か大声で話している枯れた高い声が上がってくる。切迫したようなその声に、怖くなって布団を引き上げようとしたが、手が動かない。手だけでなく、身体が動かなかった。それでも足音と声は近づいてくる。
なんとか動こうと指先や足先に力をこめるが、近づいてくる音に焦り、息苦しくなるだけだった。そばにいたはずの猫の気配もしない。もがいてみてもどうにもならない。出ない声で兄を呼ぶ。怖い。助けて。
思わず目を閉じる。同時に音と声が止んだ。階段の最上段に到着したようだ。身体が動く気配は無い。しばらく静寂が続く。自分が吐く早い呼吸の音しか聞こえない。静寂は尚、続く。身体は動かない。怖い。助けて。声にはならない。
どれだけ静寂が続いたか。緊張感は限界に近づき、意識が遠くなりかけていた。身体は動かない。もう一度力を入れた瞬間、すぐ近くで、掠れた高い声がした。思わず開けた目の前に、それはいた。暗い部屋でも、はっきり見えるくらいの近さだった。ひっと喉がなる。吸い込んだ空気は獣の臭いがした。咳き込めず喉がふさがる感じがして息ができない。
高い声で怒鳴っている言葉は何を言っているのかわからない。それでも憎悪を向けられているのはわかった。息ができず、意識が遠くなる。
何故?何故そんなにも私達を憎むの?出せない言葉を意識で伝える。仰向けになった自分の上にいるはずなのに、全く重さを感じないそれは、乱れた髪に覆われ、つり上がった目に呪文のような言葉を吐く、祖母の姿だった。