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(四)床を這うモノ

階段の最上段で座り込んだまま、胸元の服の生地を握りしめ深呼吸を繰り返していた。それでも動悸は治まらない。床の木目を見詰めながら、そこに雫が落ちているのに気付いた。それは今も一つずつ増え、小さな水溜まりを広げていく。


なぜ、こんな事が起こるのか。祖母と母の確執が、両親の仲を蝕み、兄は家に帰らない。そして祖母はあんな様子で。どんなに考えても答えなど出ず、自分はなんて非力なのだろうと思った。兄だったら、何かできるかもしれない。そう思い、兄の部屋のドアを見た。


ドアは少し開いたままだ。誰が開けたのだろう。右手の袖口で涙を拭うと立ち上がって、兄の部屋へ向かう。階段から離れかけた時、下から母の声がした。父も母も出かけると言う。あんな事があったのに普通に出勤するようだ。わかったと返事をして、階下を伺う。父の車のエンジン音がして、母が玄関を出る気配がした。


しばらくそこに立ち竦んでいた。祖母のあの状態も両親の中では日常に支障を来すほどでは無いのか。祖母は普通に帰宅したのだろうか。何も知らされず、ただ起こる事を見ているだけなのが歯痒い。なぜ私だけ子供なんだろう。


思わず壁を叩く。その音に反応したのか猫が階段を上がってきた。あの騒ぎでエサをもらえなかったのかと、少し穏やかな気持ちになる。足元まで来てこちらを見上げた。抱き上げて下へ降りようとして、また兄の部屋のドアが気になった。猫を抱いたままドアに近づく。ドアの直前で猫は飛び降りてしまった。手から逃れた温もりに少し心細くなる。


開いた隙間から中を覗いた。薄暗い部屋、カーテンを透かした淡い青が辛うじて床を照らしている。部屋の隅までは見えないものの、人がいる気配は無かった。兄はいない。溜め息をついてドアを閉めようとノブに手を掛けた。その時、ずずっと何かを引きずるような音が部屋の中から聞こえた。音を確認しようと、じっと動かずに待つ。


暫く何も聞こえなかった。開いたドアから見える範囲には何の変化も無い。足元でじっとしていた猫が、急に立ち上がりドアの隙間から部屋の中を覗いた。また、ずずっと音がしてその瞬間、猫の体毛が逆立った。尻尾の毛も広がり、二倍位の太さになる。一歩後ずさって唸り声をあげた。


猫の様子に驚いて、部屋の中に視線を移す。ずずっ、ずずっと音が断続的になり、そしてそれが隙間を横断した。淡い青の部屋の床を黒っぽい塊がくねるように、這っている。


動悸が激しくなり、呼吸が荒くなる。ドアの隙間からその塊を確認する事はできないが何か恐ろしいモノのような気がした。逃げ出したいのに体が動かない。もう一度ずずっと音がした瞬間、猫が唸り声をあげて部屋へ飛び込んだ。隙間からは見えない所で、どたばたと暴れる音がする。その中に、猫のものではないうめき声や叫び声がした。


体はまだ動かない。逃げることも部屋の中を見ることも出来ない。ドアノブに掛けた手のひらから、汗が吹き出しすべった。そのせいで少しだけ、ドアが開く。


思わず目を閉じた。同時に部屋の中の音が止んだ。そして猫が爪を立てたまま床を歩く音が近づいて、目を開けた。俯いていた視界の中に入ってきた猫は、毛の逆立ちは収まっていたが、耳の辺りにべっとりと、血のような物がついていた。慌てて触れようとした手をすり抜け、階段を降りて行ってしまった。


猫の去った後を見送り、ドアの隙間に視線を戻す。何の変わりもない兄の部屋。猫は何と争っていたのか。深呼吸を一つして、ドアノブに手を掛け引いた。淡い青色の室内。少し散らかっているのはいつものことだ。むっと鼻につく臭いに気付き、室内に入るのを躊躇した。部屋の入り口に立ったまま中を見回す。さっきと変わらないと思ったが、良く見ると、床や壁に毛のようなモノが散らばっている。猫の毛もあるが、もう少し長い毛が混ざっていた。


獣だ、と思った。臭いも毛も。前に兄と行ったペットショップの臭いを強くした感じに似ている。猫からはこんなに強い臭いはしない。ならばさっきの黒っぽい塊が何かの動物だったと言うのか。動物なら、どこから入った?いや、まだこの中に隠れている?


動物なら、恐れる事は無いと自分に言い聞かせ部屋の中へ入った。きつい臭いに袖口で鼻を覆う。何かがいる気配は無い。とりあえずカーテンと窓を開ける。風が入り臭いが和らいだ。明るくなった部屋を見回して、何かが隠れられそうな場所を探す。


毛が散らばっている床の先にベッド、その下に空間がある。ここからでは遠くて見えないが、猫くらいの動物なら簡単に隠れられそうだ。しかし、さっきドアの隙間から見えた塊はそんなに小さくなかった気もする。周りを見ても他に隠れられそうな場所は無い。


一度部屋を出て、廊下の納戸から長柄ホウキを持ってきた。ベッドの近くに寄り、ホウキを下の空間に差し入れた。しゃがみこんで臭いがここから出ている事に気づく。何かが動く気配は無いが、思いきって握ったホウキの柄を左右に振った。一瞬何かに引っ掛かったが、ホウキはベッドの下を隈無く移動できた。何かがいる気配も無い。


もう一度さっき引っ掛かった辺りにホウキを差し込もうとした時、部屋の空気が変わった。背中のすぐそばで何かが動いた。ヒューヒューと喉を息が抜けるあの音。そして、耳にと言うより頭に直接響くような低く掠れた声がした。


出ていけ、と。

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