(三)憑依するモノ
少々ですが暴力表現を含みます。苦手な方は回避をお願いします。
朝、母が布団を畳む気配で目覚めた。布団を部屋の隅に積むと、しばらく壁の穴を見詰め部屋を出ていった。昨夜のアレに母は気付いていないのだろうか。
髪が触れた感触を思い出し、頬に手を当てた。驚いてすぐに離し、もう一度首筋あたりに手をやり、絡んだモノを顔から離した。起き上がり手を見る。長い髪の毛が何本も手に絡みついていた。すぐに屑入れに捨て、内袋にしていたコンビニ袋の口を縛りそれを掴むとキッチンへ降りた。
やはり、夢では無かったのだ。アレは確かに昨夜ここにいた。そして、私を覗き込み髪の毛を落としていったのだ。長く傷んだその髪の毛は、ほとんどが白髪だった。
白髪、そしてあの喉を抜ける息の音。
アレは誰なのだろう。キッチンに立つ母におはようと声をかけたが返事は無い。父は居間で新聞を読んでいた。
コンビニ袋をゴミ袋に入れると、洗面所で手を洗う。絡み付いたあの感触を消す為に何度も、何度も。それから顔を洗って、鏡を覗いた。青い顔、隈まであるが熱は下がったようだ。
再びキッチンに行き、母に学校へ行くと告げると、二階へ上がった。ふと、兄の部屋のドアを見る。少しだけ開いていた。昨日の昼間、初めてアレにあった時、ドアは閉めたはずだ。気になってドアに近づいた。兄が帰っていたらと淡い期待もして。
その時、階下から大きな音が聞こえた。階段まで戻り下の様子を伺う。父の怒鳴り声と、続いてまた大きな音、居間と奥の和室を繋ぐ引き戸を思い切り閉めた音だ。
静かに階段を降りる。居間へ向かおうとして、立ち止まった。開いた居間のドアの前に猫が座り、じっと中を見詰めていた。奥からは父と怒鳴り合う、少し掠れた高い声が聞こえていた。
祖母だ。近所に住む祖母は時々、出勤前の父を訪ねてくる。祖母は難しい人で、孫である私達にさえ冷たくあたる。兄も私も祖母が来ている時は二階から降りずに帰るのを待っていた。
気に入らないことがあると、手を上げる。幼い頃、母が叩かれていたのを見てから、祖母には近づけなくなった。大人が大人を叩く行為にかなりの嫌悪感を抱いた。
父と祖母の言い争いはまだ続いている。母の気配は感じない。奥の和室に逃げ込んだのかもしれない。恐らく今でも、祖母は母を叩くだろう。老女の力はそれほど強くは無いだろうが、叩かれると言う行為は、母の心を打ちのめすのには十分すぎる。
一歩後退り二階に戻ろうとした瞬間、猫が弾かれたようにこちらへ走りだした。と、同時に居間のドアから何かが大きな音を立てて飛んできた。猫は私の少し前で止まり、振り返って飛んで来たものを見ている。
それは、座椅子だった。居間にある木製の座椅子。考えたくは無かったが、父が投げたのか。不仲になっても父が母に暴力をふるう事は無かったのだ。その父が実の親である祖母に座椅子を投げたのか。
祖母に当たったのではないか。呆然と座椅子を見詰めていると、居間の入り口から腕が伸びて座椅子を部屋に引き込んだ。そして再び大きな音がする。音と同時に猫が居間へ走って行った。
私は動けなかった。居間に座椅子を引き込んだのは、細く皮ばかりの腕、祖母の腕だったのだ。立っていられないほどの動悸がして、壁に手をつくと、体を支えるようにしてのろのろと歩き居間を覗いた。
入り口からすぐの所に祖母が立っている背中が見えた。肩で息をしている。その奥、家具調炬燵を挟んだ向こうに父が座り込んで祖母を見詰めていた。父の脇に座椅子が転がっている。よく見ると炬燵の天板が父に向かって傾いていた。
天板には大きな傷も出来ている。転がった座椅子は、祖母が父に向かって投げたのだ。少なくとも二回目は。父の様子でぶつかってはいない事はわかった。それでもひどいショックを受けているようだ。
先に居間に入った猫は父と祖母の間、傾いた天板の上で祖母に向かい頭を低くして唸っていた。まるで父を守るように、祖母を威嚇しているように。
久しぶりに見た祖母は、前より小さくなっていた。この細い体のどこに座椅子を投げる力があったのか。立ちすくみ祖母の背中を見詰める私に気付いた父が、二階に上がっていろと怒鳴った。
慌てて駆け出そうとしたが、足がもつれて転んだ。
急いで立ち上がる瞬間、振り返った祖母の顔が見えた。息を飲み、逃げるように四つん這いの状態で階段へ向かった。二階に上がり切った所で、誰かが玄関から出ていく音がしたが、振り返る事が出来なかった。
一瞬見えた祖母の顔、あれは本当に祖母なのか。あの恐ろしい形相が、人間のものなのか。思い返し、ひどくなる動悸を抑えようと、階段の手すりを掴んだまま、座り込んだ。
確かに、孫にさえ笑顔を見せない祖母は、普段からひどく神経質そうな冷たい顔をしていた。その皺に囲まれた細い目で、ちらと見られただけで、私なんて逃げ出したい衝動に駆られるくらいだった。
しかし、今見た祖母の顔は、これまでのどんな冷酷な表情にも比べ物にならないほどだった。いや、あれは本当に人の顔だったのか。良くできた般若の面を被っていたのではないか。
信じられない位につり上がった目は、ほとんど白眼に見えた。つり上がった状態で、目を剥いていたような。思い出すと震えて、また動悸が激しくなる。
祖母はどうしてしまったのか。あのまま死んでしまうのではないかと思った。もしかしたら、昨日のアレが、祖母に何か影響したのかもしれない。憑依されたのではないか。あの何か得体のしれないモノに。