(二)部屋に立つモノ
寒さに震えて目を覚ました。兄の部屋の前にうつ伏せになったまま顔だけ上げて視線をあげる。すでに暗くなっているがいつもと同じ二階の廊下。目が慣れてくると、あちこち痛む体を起こし、立ち上がった。
階下からは、母がキッチンで作業する音が聞こえる。学校を休んだ娘が廊下に倒れていたことに、全く気づかない母親。ただ事務的に家事をこなしているだけなのだろう。
部屋に戻るとベッドに寝転んだ。見慣れた天井を見上げる。右手を額に当て熱さを確認する。熱があるようだ。布団を引き上げて潜りこんだ。
熱が見せた幻覚だったのか?いや、姿を見た訳では無いから幻聴と言うべきか?
いつの間にか眠っていたらしく、部屋のドアをノックする音で布団から這い出す。食事を盆に乗せて入ってきた母は、具合はどう?とこちらも見ずに問う。平気、と答えて母に背を向けるように横になった。
目を瞑り、少し痩せた母の姿を頭の中から消そうとした。一番辛いのは母だろうと解ってはいたが、それでも大人で親なのだから子供を守れと、無言で責め続けていた。
しばらくして、母はお願いがあると言った。聞きなれない単語に体を起こして、母の方を向く。母は手元の盆を見たままこちらも見ずに、今夜からこの部屋で寝させてほしいと呟くくらいの小さな声で言った。
母の寝室は父と一緒だ。不仲になってからは、父が寝たのを確認してから寝室へ行き、父が起きる前に出るという生活を送っていた。睡眠時間が確保できずつらかったのだろう。フルタイムで働く仕事にも影響し始めたのかも知れない。
部屋で1人でいる時間が好きだった。母でさえ、いや母だからこそ、その空間を侵されるのは嫌だった。けれど無言で答えない私の方を、やっと見た母のやつれた顔に頷いていた。
母より早く眠ってしまえばいい。私と父が食事を済ませた後、一人で食事をする母がベッドに入るのは深夜だ。それまでに眠ってしまえばいい。両親を拒絶しているのは私の方だ。
父が寝た後、キッチンに降りた。冷蔵庫を開けてお茶を取り出す。
足元にすり寄ってきた猫の頭を撫でて、グラスに注いだお茶を飲み干す。続けて二杯、一気に飲むとしゃがみこんで猫と向き合った。
濃いグレーの毛色にがっちりした体型の雄猫は、食事のときだけ帰ってくるが、ほとんど家には寄り付かない。一度近所の空き地で見かけたが普段はどこにいるのだろう。飼っていると思っているのは私達だけで、実際には他にも餌をくれる家があるのかもしれない。自由でいいと羨ましく思う。一人で生きていけたらいいと。
何を考えているのか、こちらをじっと見つめる金色の目に、なぜか安堵して涙がこぼれた。床に座り膝を抱えて涙が収まるのを待つ間、猫はただ横に座ってそこに居てくれていた。
部屋に戻ると客用の布団が壁側に敷いてあった。今夜から母がここに寝る。ベッドに入り反対側を向いて目を閉じた。昼間もかなり眠ったのに、あんなことがあったからか、疲労を感じてすぐに眠りにつくことができた。
気配を感じた。母が来たのだろう。ベッドの脇、背後に立っている気配。こちらを見ているのか動かずに立ったままだ。おかしいなと思ったが、酔っているかもしれない母と話すのは嫌だった。酔うと陽気になってすぐ寝てしまう父と違い、母はしつこく絡んだり泣いたりする。時々深夜に、誰かと電話で話しながら泣く母を見たことがあった。
まだ、立っている。いい加減寝たら、と言おうと振り返ろうとしたが体が動かない。慌てて目を開けた。壁に向いたままの姿勢だ。とにかく体の先端を動かそうとしたが、顔の前にある手さえ動かない。
暫くそうやって身体に神経を集中していたら、後ろから布団の中で身動きをする衣擦れの音と、母の寝息が聞こえた。母は寝ているのか。後ろに立っているのは、母では無いのか。
動かない体に汗が吹き出す。辛うじて動く目で必死に後ろを見ようとしてみる。その時、後ろに立つモノが屈んでこちらに近づいた。目の端に長い髪が見えた。父でも兄でも無い、母でも無い長い髪。ギュッと目を閉じる。体は相変わらず動かず、逃げることもできない。
覗きこんでいるのか、かなり近くに気配を感じた。昼間も感じた息を吐く音。時折ヒューヒューと喉がなる音が混じっていた。息がかかる頬に固く冷たい何かが触れた。髪の毛だと気づいた瞬間、体が動いた。闇雲に手足を動かし、ああっと叫んで体を起こした。
触れられる位置にいたはずのモノには触れず振り回した手は空を切った。目を開けると、いつもと変わらない自分の部屋。いつもと違う客用の布団は、今の叫びにも気付かず、静かに上下している。
誰も、何も居なかった。昼間と同じ気配。夢じゃないはずだ。熱のせいでもない。それに、あのヒューヒューと鳴る喉を息が抜ける音は、どこかで聞いた事があった。私はあれを知っている。昔どこかで、聞いた音だ。
記憶を手繰り寄せて必死に思いだそうと両手で頭を抱えた。不意にあの吐息と髪の感触を思い出して身震いした。布団に潜りうずくまる。あれは一体なんなのだろう。誰、なのだろう。生きている人間では無いのか。それでも何故か、それほど恐怖には思わなかった。普通の少女の感情さえ失い始めていたのかもしれない。