此処にいるモノ
猫の鳴く声で目覚めた。あの日、この部屋で兄と眠ったあの夜から、猫は毎晩私のベッドの上で眠るようになった。朝、出ていきたくなるとドアを開けろと鳴く。
カーテンの隙間から漏れる光はまだ早い朝の陽射しだ。もうしばらく起きなくても学校には間に合う。もう一度眠ろうと布団を引っ張りあげた隙間に猫が入りこみ、盛んに顔をなめ回し始めた。
ざらりとした舌の痛いくらいの感触に耐えきれず、布団から起き出してドアを開けると、猫は勢いよく部屋を飛び出して階段を降りて行った。
後を追うように階段に近づくと、階下から派手な音が聞こえた。おそらく調理器具を床に落としたのだろう。音の原因を想像して苦笑いしながら階段を降りる。
以前は、大きな音が階下から聞こえると部屋に閉じこもって争いが終わるのをじっと待っていた。この家で聞こえる音は苦痛でしかなかった。
リビングのドアを開ける。続くキッチンに立つ父の姿に頬が緩む。母のエプロンをしてワイシャツの腕を捲り、フライパンからテーブルに並べた皿に、少し焦げた目玉焼きを移しているところだった。
父の足元には猫が、餌をねだってまとわりついている。その横には転がった空の鍋。吹き出しそうになるのを堪えて、鍋を拾いながらおはようと言った。
罰が悪そうにこちらを見て早いな、と父が言う。猫の餌入れにドライフードを入れて、猫の頭を撫でた。右側の耳の端に小さな切れ込みがある。あの恐ろしい出来事は夢だったのではという思いを否定する事実。
後ろで、味噌汁を先に作るんだった、と呟く父の声を聞いて耐えきれずに吹き出した。そのまま洗面所に向かう。
鏡を覗く。少し太ったかもと頬をつまむと、後ろから兄が笑いながら覗きこんだ。鏡越しに睨んでから、水で顔を洗う。
以前のような穏やかな朝を迎えている。以前と全く同じではないけれど。また、大きな音がして父の慌てた声に兄の笑い声が重なる。前髪の雫を丁寧に拭き取ってからリビングに戻った。
冷めたご飯に焦げた卵、熱々だけど味の薄い味噌汁。うまくない、と文句を言いながら、兄があっという間に平らげた。むっとしながら黙々と箸を動かす父を眺めながら、自分の皿も空にする。
祖母が入院してから1ヶ月。朝、仕事前に病院に寄るようになった母の代わりに、父が作る朝食はなかなか上手くならない。大学が休みの日に兄が作る方が断然美味しいのに、父は頑なに自分が作ると譲らない。
祖母の世話をする母への感謝を上手く表現できないでいるだけ、と兄が言うので私も手伝わずにいる。父の味だと思うと何故か愛しくて、卵の焦げたところまで全部食べてしまった。
ガチャガチャと音をたてて洗い物をする父の背中を眺めて耳をすました。今、この家で聞こえる音は、平凡な日常の幸せな音。苦痛だった音は、今は聞こえない。
病院に寄っていくからと、早く出発した兄を見送った。兄も、そして私もあれから何度も祖母の見舞いに行っている。家に来ると、部屋に閉じ籠り会わずに避けていた祖母に会いに行っているのだ。
相変わらず眉間に皺を寄せた気難しい顔をしている祖母に、小言を言われながら世話をする母が何故か楽しそうで、その母を見るのが兄も私も嬉しかった。
あの頃、家に帰らなかった兄も、一人で家に居続けた私と同じように寂しかったに違いない。今は家と大学と病院を行ったり来たりして、必ず誰かと一緒にいるみたいだ。
片付けが済んで新聞を広げる父に声をかけて家を出た。始業時間にはだいぶ早い。朝の透明な空気をいっぱいに吸い込んで、自転車のペダルを踏んだ。
祖母の自宅の庭先に自転車を停めた。祖母が留守の間、庭の花木や草花に水やりをする約束をしていた。頼み事をする時にも無表情なままだった祖母が、その日の帰り際に家の鍵を渡してくれた。台所の戸棚に買い置きの菓子があるからと。
水やりを終えてホースを巻いた後、鍵を使って玄関から中へ入る。台所の戸棚からクッキーの箱を取り出して中を開けると、一枚選んで頬張った。そして、母に言われた通りに台所と居間、祖母の寝室の窓を開けて、新しい空気を入れる。
一瞬、煙草の香りがした。まだ祖父の残り香がこの家にはあるのかもしれない。仏壇に供えられた未開封の煙草を一度手にとって、真ん中に置き直すと手を合わせた。
玄関に戻り、祖父のゴム草履を靴下のまま無理矢理履いてみる。時の流れのせいでゴワゴワとした履き心地だ。そのまま、裏庭に向かう。
戸を開けると、視界にいっぱいの緑色、木の葉が風に揺れている。脱げそうなゴム草履を、一歩ずつ飛び石に運んで、奥へ進んだ。
あの日、祖父の影に導かれてここに来た。朽ちた祠の破片に埋まっていた小さな獣の亡骸は、あの後兄が丁寧に埋めて、今は一本の若木が植えられている。
夏に真っ白な花を咲かせるシャラの木。祖母も、そして祖父も大好きな花だと父から聞いた。植えてもいいかと兄が尋ねたが、祖母は祠の存在を全く覚えていなかった。
祖父が亡くなり、子供や孫が訪れなくなったこの大きな家に一人で暮らしていた祖母は、淋しさに押し潰されてしまったのだろう。あの獣はそんな心の隙間にとり憑いたのか、人を求める心に同調してしまったのか、今となってはわからない。
そう遠くない夏の日、ここで兄と両親と、退院して元気になった祖母と、風に揺れる白い花を眺めよう。兄の話に両親は笑い、祖母はきっとまた難しい顔をしているに違いない。
そして、その時此処には、あの浴衣姿で裸足にゴム草履を履いた、煙草の匂いのする祖父もいる。もう姿を見る事は無いだろうけど。
風が若芽を撫でていく心地好い音を聴いた。ゆっくり戻る飛び石をゴム草履で踏む音も。
開け放した窓を閉めると、玄関を出て鍵をかける。手のひらに乗せた小さな鍵を見つめた。もう二度と手を離さない。今の小さな幸せが、またバランスを崩しそうになっても、私は二度と逃げたりしない。
手をきつく握りしめて、顔を上げたその時、風の中にうっすらと煙草の匂いがした気がした。もう大丈夫。次は私が守るよ。薄い煙が上がって消えた、青い、青い空を見上げて誓った。