(一)階段を上がるモノ
その頃、近くに住む祖母と母の折り合いが悪く、そのせいか両親の喧嘩が絶えなかった。怒鳴り合う声、物がぶつかる音、夜中に母が家を出る時の車のエンジン音。家の中で聞こえる音のすべてが苦痛でしかなかった。
当時、大学生の兄は、ほとんど家には帰らなかったが、まだ中学生だった私は学校から帰ると二階の自分の部屋に閉じ籠もっていることしかできなかった。
まだ幼く、自分では解放しきれない鬱憤を、誰もいない部屋で暴れたり、叫んだりしていた。部屋の壁には物がぶつかった穴が幾つもあった。両親は娘の様子を知らなかったのか、知らない振りをしていたのか。
それでも何故か、外へ出ようとは思わなかった。学校からは 真っ直ぐに帰宅する。何人かいた友人の誘いも断って帰っていた。
南側に大きな窓のある私の部屋は、北側に出入り用のドアがあった。階段を上がりきるとすぐが私の部屋で、内側からドアを開けると階段の最上段が見える。その奥が兄の部屋だ。
両親が仕事に行っている昼間の音のしない家が好きだった。ただベッドに横たわり、静寂という安堵の中で過ごす。息をする音さえもなるべく押さえて。
そんな毎日をただ過ごしていたある日、その静寂を破って音が入ってきた。静かに階段を上がる足音。兄が帰宅したのかと、耳を済ませて待った。私の部屋を覗いてくれるかもしれない。そんな淡い期待をして。
上がりきったのか静寂が戻る。そこに立ち止まったままなのか、ドアの外を通る気配がしない。ドアを開けてみたが何も無い。兄の部屋を覗いても、階下に降りても誰もいない。確かに音はしたのに。
空き巣かと思い、恐る恐る玄関を確認する。鍵はかかっていた。他に出入りできそうな裏口や窓も、やはり鍵がかかっていた。家の中には自分以外は誰もいない。
それからも度々音を聞くようになった。最初のうちは都度ドアを開けて確認していたが、いつも誰もいない。家鳴りかとも思ったが、どうしても階段を上がる足音に聞こえていた。
私は部屋のドアを開けたままにして過ごすことにした。音の正体を確認したかったのだ。不思議と恐怖は無かった。何もかもどうでもいいやと、思っていたからかもしれない。
その日は雨が降っていた。体調が悪いと学校を休んだ私は、ベッドでうとうとしているところだった。急にドンッと大きな音がして、目を開けた。
また両親が争いを始めたのかと布団に潜ろうとして、まだ窓の外が明るいことに気づいた。両親が明るい内に帰って来ることはない。今度こそ兄かと考え、体を起こすとドアの方へ目を向けた。
その時、ドンッと二度目の音がして、それが階段を上がる音だとわかった。かなり乱暴に、だけど一段ずつゆっくりと上がってくる音。ドンッ、ドンッ。音が近付いてくる。兄の名を呼ぼうと口を開いたが、喉が渇ききっていて声は出ない。
それは徐々に近づいてくる。いつもよりかなり大きな音に初めて恐怖を感じた。思わず目を閉じると、音と音の間隔が短くなる。来ないでっと心のうちで叫びながら無意識に音の回数を数えていた。13回目、階段の最上段の段数を上りきったであろう所で静かになる。上がって来たものが人ならば、最上段に立っているはずだ。
確認すると決めたのに、どうしても目が開けられない。なぜか見てはいけない気がしてならない。それはそこにいるのか?
どれくらいの時間がたったのか、顔に流れる汗が膝の上で握りしめる手の甲に落ちた。ゆっくりと目を開ける。薄暗い部屋のドアの外、階段には誰もいない。何も無い。もちろん見渡した部屋の中にも。
水が飲みたい、顔が洗いたい、そう思ってベッドを降り部屋を出た。階段の最上段から下を見る。いつもと変わった様子は無い。兄が私を驚かそうとしたのかとも思ったが、昔ならともかく今の兄がそんなことをするはずがないと苦笑する。
ベッドに座ったまま夢をみた?だとしたら、私も相当病んでいるんだろう。
そんなことを考えてから、念のため兄の部屋を覗く。少し散らかっているのは、いつものことだ。ドアノブに触れた手に埃がついた。どれだけ兄はここに帰っていないのだろう。少しの寂しさを感じ人気の無い部屋のドアを閉める。
私だけでなく家族の各々が暗く重いモノを心の中に積もらせていたに違いない。
ドアを背に、歩きだそうと階段の方へ向き直ったその時、さっきまでドアノブを握っていた右手が何かに引かれた。人の手のような、それもひどく冷たいモノ。驚いて振り返るが、そこは目の前にドアがあるだけだ。
ドアノブに引っ掛かっただけだろうと思い込み、もう一度歩きだそうと振り向こうとした。
その時、はーっと低く枯れた声と息を吐く音が耳のすぐそばで聞こえた。同時に息が首筋にかかる。丁度肩の後ろから覗かれているような感覚。
何かがいる。得体のしれないモノが。逃げ場を探し無意識に半歩下がる。耳元で息を吐いたモノは、すぐ後ろにいるはずなのに、下げた足は何の障害もなく下がった。何がいるのか確認しようとしても、恐れから振り向くことができない。確かにそれは顔のすぐそばにいる。いや、すぐそばにある?
パニックになり闇雲に腕を振りながら、目を瞑って振り返り駆け出そうとする足を、今度は掴まれた。前のめりに倒れ、慌てて両手をつく。床の木目が視界いっぱいになる直前に、なんとか体を支えた。足を掴まれる感覚はもう無い。しかし、腰が抜けたのか立ち上がれない。
恐怖はピークに達し、そのままうずくまる顔のすぐ上で、もう一度息を吐く気配がした。私は何か叫んだように思う。あまりの恐怖にそこから記憶が曖昧だ。気を失ってしまったのだろう。