第9話『さよならを言わない約束』
朝の空は、淡い灰色だった。
晴れてもいないし、雨でもない。
まるで世界が、感情を決めかねているような色。
ミオの頭上の数字は、二桁を切っていた。
九日。
それは、指で数えられるほどの未来。
僕はもう、数えることをやめていた。
数字を見れば、心が削れてしまうから。
病室には、穏やかな音楽が流れている。
彼女が好きだと言っていた、ピアノの曲。
「この曲ね」
ミオは天井を見ながら言った。
「終わり方が、少しだけ途中みたいで好き」
「……途中?」
「うん。完全に終わらない感じ」
その言葉に、胸が詰まる。
「続きは、聴く人の中にあるって思えるでしょ」
彼女は、静かに微笑んだ。
まるで、自分の人生そのものを語っているようだった。
外出は、もう難しくなっていた。
体力は目に見えて落ち、歩くとすぐ息が上がる。
それでも彼女は、窓辺に行きたがった。
「外、見たい」
僕は車椅子を押し、窓際まで連れていく。
冬の気配が、街を包んでいる。
「……ねえ、ユウトくん」
「はい」
「もし、私がいなくなったあと」
その言葉に、心臓が強く跳ねる。
「泣いてもいい?」
意外な問いだった。
「……え」
「私のために」
彼女は、少し困ったように笑う。
「我慢しないで」
僕は、声を出せなかった。
「私ね」
彼女は続ける。
「あなたが、全部平気な顔するほうが、つらい」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
「だから、ちゃんと悲しんで」
それは、残される者への優しさだった。
その夜、彼女は熱を出した。
看護師が慌ただしく出入りし、機械音が増える。
僕はベッドのそばから離れなかった。
眠る彼女の呼吸は、不規則で浅い。
数字は、六日。
死神だった頃なら、もう“最終段階”と呼ばれる状態だ。
だが今の僕には、何もできない。
手を握ることしか。
夜半、彼女が目を覚ました。
「……ユウトくん」
「ここにいます」
即座に答える。
「よかった」
それだけで、すべてが報われた気がした。
「ねえ」
かすれた声。
「約束、しよう」
「……なんですか」
「さよなら、言わないこと」
心臓が、ぎゅっと縮む。
「最後まで、いつも通りでいよう」
彼女は、微かに笑った。
「“またね”も、言わなくていい」
それは、別れを特別にしないための願い。
「……分かりました」
声が、震える。
「約束します」
その瞬間、彼女は少し安心したように目を閉じた。
翌日から、彼女は眠っている時間が増えた。
起きていられるのは、ほんの数分。
それでも目を覚ますたび、必ず僕を探す。
「いる?」
「います」
その短いやりとりだけで、十分だった。
言葉がなくても、確かに繋がっている。
ある午後、彼女は珍しく長く起きていた。
窓の外は、夕焼け。
「きれい……」
彼女の声は、風のように細い。
「ねえ、ユウトくん」
「はい」
「私、生まれてきてよかった」
胸の奥が、崩れる。
「あなたに会えたから」
その言葉に、返す言葉が見つからない。
「私ね」
彼女は、ゆっくりと息を吸う。
「怖くない」
それは、嘘ではなかった。
魂が、静かに整っている。
未練ではなく、満足。
それが、いちばん残酷だった。
夜。
数字は、二日。
病室の灯りは落とされ、静寂が支配する。
僕は、彼女の手を握ったまま、眠らずにいた。
死神だった頃、何千という最期を見てきた。
だが、こんなにも近く、こんなにも苦しい別れはなかった。
「……ユウトくん」
微かな声。
「起きてます」
「よかった」
そればかり言う。
「ねえ」
「はい」
「ありがとう」
それだけだった。
理由も、説明もない。
けれど、すべてが詰まっていた。
夜明け前。
空が、薄く青みを帯び始める。
数字は、もうほとんど光っていない。
消えかけの火のようだ。
彼女の呼吸が、ゆっくりになっていく。
僕は、ただ祈った。
何かを願うのではない。
今この瞬間が、苦しくありませんようにと。
彼女は、最後に目を開けた。
視線が、僕を捉える。
言葉は、もう出なかった。
それでも、微かに口角が上がる。
その表情は、さよならではなかった。
約束通り、別れの言葉はなかった。
ただ、静かな微笑みだけが残った。
光が、朝を連れてくる。
そして。
数字が、消えた。
その瞬間、世界は何事もなかったように動き続けた。
車が走り、人が話し、朝が始まる。
だが、僕の世界だけが、静止していた。
彼女の手は、まだ温かい。
けれど、魂の気配は、もうない。
死神ではない僕には、行き先も見えない。
ただ、確かに感じる。
彼女は、穏やかに旅立ったのだと。
約束を守ったまま。
さよならを言わずに。




