第4話『君と過ごす、限りある日々』
季節は、音もなく進んでいた。
校庭の桜はすでに散り、若葉が陽光を弾いている。
世界は何事もない顔で、次の季節へ移ろうとしていた。
まるで、誰かの時間だけが止まりかけていることなど、知らないかのように。
「今日は、どこ行く?」
放課後、ミオは少し弾んだ声でそう言った。
以前よりも顔色は良くない。
それでも、表情は明るかった。
「……無理はしない約束でした」
「今日は大丈夫。ほら」
くるりと一回転する。
その仕草に、思わず息を呑んだ。
あまりにも普通で、あまりにも儚い。
「ねえ、ユウトくん。お願いがあるの」
「……何でしょう」
「普通のこと、したい」
その言葉が、胸に深く落ちた。
普通。
それは僕にとっても、彼女にとっても、遠い言葉だった。
駅前の小さな商店街。
放課後の時間帯で、人の流れがゆるやかに行き交っている。
「わ、たい焼き」
ミオは目を輝かせた。
「こういうの、久しぶり」
「食べられるんですか」
「うん。今日は、少しなら」
彼女は一つ買い、半分に割って差し出す。
「はい、ユウトくんの分」
「……僕は」
「一緒に、ね」
断る理由が見つからなかった。
甘い香りが、春の空気に混ざる。
一口かじると、熱がじんわりと指先まで伝わった。
「どう?」
「……温かいです」
「でしょ」
それだけの会話が、妙に嬉しかった。
死神界には、味覚という概念はない。
食べる行為は“擬態”でしかなかった。
なのに今、確かに“美味しい”と感じている。
その事実が、少し怖かった。
公園のベンチ。
子どもたちの笑い声が風に混じる。
ミオはブランコを眺めながら言った。
「小さい頃ね、よくここに来てたんだ」
「……覚えているんですね」
「うん。でも途中から、来られなくなった」
彼女は膝の上で指を絡める。
「入院が増えて。外に出ると怒られた」
淡々とした語り口。
それが、かえって胸を締めつける。
「だからね、こうして外にいるだけで、すごく贅沢な気分」
そう言って、目を細める。
その瞬間、僕は強く思ってしまった。
この時間が、永遠に続けばいいと。
思った瞬間、自分を叱る。
永遠など、存在しない。
まして、彼女には。
夕方。
空が橙色に染まるころ、ミオは少し疲れた様子を見せた。
「……ちょっと、休んでいい?」
「もちろんです」
木陰のベンチに腰を下ろす。
彼女の呼吸は浅く、肩が小さく上下していた。
思わず、手を伸ばしかける。
触れてしまえば、もう戻れない気がして、指先は宙で止まった。
「ユウトくん」
「はい」
「もしね、明日が来るって保証がなくても」
彼女は、空を見上げたまま続ける。
「今日が楽しかったら、それでいいって思える?」
その問いは、あまりにも残酷だった。
死神にとって、明日は常に確定している。
数字として、明確に。
けれど彼女の明日は、どこにも書かれていない。
「……僕には、分かりません」
正直に答えた。
「でも」
言葉を選びながら続ける。
「今日が楽しかったことを、無意味だとは思いません」
ミオは小さく笑った。
「うん。それでいい」
その言い方が、まるで答えを知っていたかのようで、胸が痛んだ。
帰り道。
家の前まで送るのが、いつの間にか習慣になっていた。
「ありがとう、今日」
「……こちらこそ」
「ねえ、ユウトくん」
玄関の前で、彼女は立ち止まる。
「また、こういう日を過ごしたいな」
胸が、きゅっと締まる。
「……はい」
「無理なら、無理って言ってね」
その言葉が、彼女の優しさを物語っていた。
自分の時間が限られているからこそ、他人の時間を奪わない。
それが、彼女なりの覚悟だった。
「無理じゃありません」
即答していた。
それは、完全な私情だった。
その夜。
死神界の回廊で、上司とすれ違う。
「最近、人間界での滞在時間が長いな」
「……申し訳ありません」
「忠告は、すでにした」
上司は歩みを止めずに言う。
「幸福な時間ほど、後で強く歪む」
その言葉が、胸に突き刺さる。
分かっている。
この穏やかな日々は、嵐の前の静けさだ。
「だが、お前はまだ見習いだ」
わずかに、声の温度が変わった。
「完全に道を外れぬ限り、引き返せる」
その背中を、僕は見送る。
引き返す。
その言葉が、ひどく遠く感じられた。
夜更け。
人間界の空は、星が少なかった。
ベッドに横になりながら、今日の出来事を思い返す。
たい焼きの温度。
ブランコのきしむ音。
夕焼けに染まる横顔。
それらすべてが、胸の奥で静かに積み重なっていく。
死神は、記憶を溜めてはいけない。
未練になるからだ。
それでも僕は、今日を忘れたくなかった。
ミオが笑っていた事実を、
この世界に確かに存在していた証を。
窓の外で、風が木々を揺らす。
その音を聞きながら、僕は思った。
もし、彼女の時間が限られているのなら。
せめて、その時間が“孤独ではない”ように。
それが延命でなくても、
運命への干渉でなくても。
ただ、そばにいることだけは許されるのではないか、と。
だがその願いすら、
やがて掟に触れることを、僕はまだ知らなかった。
穏やかな夜は、静かに更けていく。
その裏で、確実に近づく“その日”を、誰も止めることはできないまま。




