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第3話『延ばしてはいけない命』

 死神界には、季節がない。


 空は常に薄い灰色で、風は冷たさだけを運んでくる。

 時間は流れているはずなのに、変化という概念が存在しない場所。


 その中心にある白い回廊を、僕は歩いていた。


 靴音が、やけに大きく響く。


「……呼び出し理由は分かっています」


 前を歩く上司の背に向かって、そう告げた。


「なら話が早い」


 回廊の突き当たり。

 巨大な扉の前で、上司は立ち止まる。


 扉には無数の紋章が刻まれていた。

 それはすべて、過去に存在した死神の印だ。


「ここは“記録の間”だ」


 扉が軋む音を立てて開く。


 中には、天井まで届くほどの棚。

 そこに並ぶのは、書物でも水晶でもない。


 “名前”だった。


 光を帯びた文字が、無数に浮かび、静かに脈打っている。


「これが……」


「消えた死神たちの名だ」


 胸が、重く沈む。


「掟を破った者。運命に干渉した者。命を延ばそうとした者」


 上司の声は淡々としていた。


「彼らは罰を受けた。存在そのものを、世界から抹消されている」


「……死ぬ、のですか」


「違う」


 即座に否定された。


「“最初からいなかった”ことになる」


 その言葉の意味を、理解するまでに時間がかかった。


「記憶にも、記録にも、痕跡すら残らない。仲間だったことも、師弟関係も、すべてだ」


 僕は思わず、拳を握った。


「それは……あまりにも」


「それが、延命の代償だ」


 上司は僕を振り返る。


「命を延ばすという行為は、世界の帳簿を書き換えることに等しい。ひとつを救えば、必ず別の歪みが生まれる」


 棚の奥で、ひとつの名前が淡く揺れた。


「かつて、情に流れた死神がいた」


 上司は、その名を指差す。


「彼は一人の人間を救った。事故の瞬間、魂を回収せず、時間をずらした」


「……結果は」


「その人間は生き延びた。だが三年後、別の場所で五人が同時に命を落とした」


 喉が、ひくりと鳴る。


「帳尻だ。世界は必ず均衡を取り戻す」


 僕の背中を、冷気が這い上がった。


「だから命は延ばしてはならない。慈悲は、最も危険な感情だ」


 その言葉が、胸を締めつける。


 ミオの笑顔が、脳裏に浮かんだ。


     *


 人間界へ戻った日の午後。


 校庭では、部活動の掛け声が響いていた。


 その喧騒が、今日はやけに遠く感じられる。


 僕はベンチに腰を下ろし、ノートを開くふりをして、周囲の数字を眺めていた。


 そこに、いつもの違和感が混じる。


 ミオ。


 彼女は少し遅れてやってきた。


 顔色は昨日よりも白く、歩幅も小さい。


「……無理、してないですか」


 声をかけると、彼女は少し驚いたように笑った。


「ばれた?」


「顔に、出ています」


「さすがユウトくん。観察力あるね」


 軽い調子とは裏腹に、彼女の呼吸は浅かった。


 思わず、彼女の頭上を見る。


 やはり、何もない。


 それが今は、恐ろしく感じられた。


「今日は、少しだけでいいから」


 ミオはベンチに座り、空を仰いだ。


「病院、検査の日だったの」


「……結果は」


「まだ。でもね」


 彼女は微笑む。


「たぶん、あんまり良くない」


 あまりにも穏やかな言い方だった。


 胸の奥が、きしむ。


「でも、不思議と落ち着いてるんだ」


「どうしてですか」


「ユウトくんがいるから、かな」


 言葉が、心臓を直接叩いた。


「一人じゃないって思えるだけで、怖さって半分になるんだね」


 その瞬間、上司の言葉が蘇る。


 慈悲は、最も危険な感情。


 それでも、僕は彼女から視線を逸らせなかった。


     *


 夕暮れ。


 二人で並んで歩く帰り道。


 影が長く伸び、やがて重なった。


「ねえ、ユウトくん」


「はい」


「もしね、私が突然いなくなったら」


 足が、止まる。


「……そんなこと、言わないでください」


「仮定の話だよ」


 彼女は立ち止まり、こちらを見る。


「その時、悲しんでくれる人がいるって、すごく救いだと思うの」


 胸の奥で、何かが軋んだ。


 死神は、悲しまない。

 見送るだけだ。


 けれど今、僕は確かに怖かった。


「……僕は」


 言いかけて、言葉を失う。


 もし彼女が消えたら。

 その瞬間、僕は魂を回収する側になる。


 それが、役目だ。


「ユウトくん?」


「……いなくならないでほしいと、思います」


 それは、掟を越えた本音だった。


 ミオは目を見開き、それから小さく笑った。


「ありがとう。そう言ってもらえるだけで、今日ここに来てよかった」


 彼女は手を振り、家路につく。


 その背中を見送りながら、僕の胸には重い確信が生まれていた。


 僕はすでに、

 “見届ける側”ではいられなくなっている。


     *


 夜。


 死神界に戻ると、再び上司が待っていた。


「情が深くなっているな」


 否定できなかった。


「覚えておけ」


 上司は静かに言う。


「命を延ばせば、世界が歪む。だがそれ以上に」


 一拍、間を置く。


「お前自身が、死神でなくなる」


「……それは」


「人の生死を判断できなくなるということだ」


 その言葉が、胸に落ちる。


 それは罰よりも、恐ろしかった。


「見習いユウト。お前は岐路に立っている」


 上司は背を向ける。


「観測者であり続けるか。感情に溺れ、消えるか」


 選べる時間は、そう長くない。


     *


 その夜、僕は眠らなかった。


 窓の外で、雲が月を隠していく。


 ミオの言葉が、繰り返し胸に響く。


 一人じゃないって思えるだけで、怖さは半分になる。


 もし、彼女の命が尽きる瞬間が来たら。

 僕は、ただ立ち会うだけでいられるのだろうか。


 答えは、分かっていた。


 それでも、まだ引き返せると思っていた。


 この時の僕は、知らなかったのだ。


 すでに運命は、

 静かに、だが確実に動き始めていることを。


 そして次に訪れるのは、

 “選択の余地すらない出来事”だということを。


 夜の底で、世界の帳簿が、音もなく一頁めくられた。

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