第2話『死神と、笑う少女』
翌朝、目を覚ました瞬間から違和感があった。
胸の奥が、ざらついている。
昨夜の記憶が、まだ温度を持ったまま残っていた。
ミオ。
名前を思い出しただけで、胸が微かに鳴る。
そんな反応は、訓練書のどこにも書かれていなかった。
「……集中しろ」
僕は制服に袖を通しながら、独り言のように呟いた。
死神見習いは、人間界に“溶け込む”必要がある。
目立たず、関わらず、感情を揺らさず。
それが鉄則だ。
なのに、昨日の放課後から、僕の視線は無意識に校門を探していた。
昼休み。
屋上の扉を開けると、春の風が一気に吹き込んだ。
そこに、彼女はいなかった。
当たり前だ。
偶然会っただけの相手なのだから。
それでも、胸の奥に小さな落胆が落ちる。
その感情に気づいてしまったこと自体が、すでに異常だった。
「……何を期待してるんだ」
自嘲気味に呟いた、その時だった。
「ユウトくん」
背後から、柔らかい声。
振り返ると、そこにミオが立っていた。
淡い色のカーディガン。
少し息を切らした様子で、手すりを掴んでいる。
「……どうして、ここに」
「昨日言ってたでしょ。学校通ってるって」
悪戯が成功した子どものように、彼女は笑った。
「ちょっと探しちゃった」
胸が、きゅっと縮む。
その瞬間、反射的に彼女の頭上を見てしまう。
やはり、何もない。
空白は、今日も揺るがなかった。
「体調は……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
余計な心配は、距離を縮める。
「大丈夫。今日は調子いい日」
そう言って、ミオは胸の前で小さく拳を握った。
「こういう日は、外に出たくなるの」
その言い方が、まるで“残り時間を数える人”のようで、胸が痛んだ。
「……無理は、しないほうが」
「心配してくれてる?」
くいっと首を傾げる。
答えに詰まる。
死神が、人間を心配するなど、あってはならない。
「……一般論です」
「ふふ、そっか」
彼女はそれ以上追及せず、隣に腰を下ろした。
距離は、肘一つ分。
近すぎる。
なのに、逃げたいと思えなかった。
「ねえ、ユウトくん」
フェンス越しに空を見上げながら、ミオが言った。
「人って、いつ死ぬと思う?」
心臓が、一拍遅れる。
「……どうして、そんなことを」
「病院にいるとね、そういう話ばっかり聞こえてくるの」
彼女は軽く肩をすくめた。
「でも、みんな違うこと言うんだよ。明日って人もいれば、ずっと先って人も」
僕は黙ったまま、答えを探した。
真実を知っているからこそ、何も言えない。
「私はね」
ミオは、空を指差した。
「決まってる日があるなら、それまでちゃんと笑ってたいなって思う」
その言葉が、胸に刺さる。
彼女には、死の時刻がない。
なのに、誰よりも“終わり”を意識している。
「……怖くないんですか」
思わず、そう尋ねていた。
ミオは少し考えてから、微笑んだ。
「怖いよ。でもね」
彼女は胸に手を当てる。
「一人で怖がるのが、一番いや」
その言葉に、胸の奥で何かが揺れた。
死神は、孤独でなければならない。
誰とも同じ場所に立ってはいけない。
なのに僕は、その孤独を、彼女の前で忘れかけていた。
放課後、二人で校門を出た。
偶然を装った同行だったが、実際は彼女の歩幅に合わせている自分がいた。
「ユウトくんってさ」
「はい」
「ちょっと、不思議だよね」
胸が跳ねる。
「……どういう意味ですか」
「うーん……遠い感じがするのに、すごく近い」
言葉を失う。
それは、死神と人間の距離そのものだった。
「怒らないでね?」
「怒りません」
「なんていうか……ずっと誰かを見送ってきた人みたいな目」
足が、止まりかけた。
図星すぎた。
「……そんなこと、ありません」
「そっか」
ミオはそれ以上踏み込まず、夕焼けを見上げた。
「でも、私はその目、嫌いじゃない」
その一言が、胸を強く打った。
誰かに肯定される感覚。
それは死神界では、決して与えられないものだった。
夜。
人間界と死神界の境界で、僕は上司に呼び止められた。
「例の少女と、再び接触したな」
「……報告義務がありましたので」
「忠告したはずだ」
声に、わずかな苛立ちが滲む。
「彼女には、死の時刻が存在しない。つまり“世界に登録されていない魂”だ」
「……魂、ですか」
「本来、存在し続けてはいけない」
その言葉が、重く落ちる。
「関われば、お前も影響を受ける。感情、記憶、存在の輪郭……すべてだ」
「……それでも」
口を開いた自分に、驚いた。
「それでも、彼女は確かに生きています」
上司の気配が、一瞬、凍る。
「生きているように“見える”だけだ」
「違います」
胸の奥が、熱を帯びていた。
「笑っていました。悩んでいました。未来の話をしていました」
それは、僕が見てきたどんな魂よりも、人間らしかった。
「……それ以上は、踏み込むな」
低く、断定する声。
「次に規則を越えれば、お前は見習いでは済まない」
そう言い残し、上司は闇へ溶けた。
その夜、眠れなかった。
目を閉じると、ミオの声が蘇る。
一人で怖がるのが、一番いや。
その言葉が、胸に残り続ける。
死神は、命を延ばせない。
運命に干渉してはならない。
それでも。
「……僕は、何を見届ければいいんだ」
答えは出ない。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼女の存在は、僕の“観測者としての心”を、確実に狂わせ始めている。
窓の外で、月が雲に隠れた。
その暗がりの中で、僕は初めて思ってしまった。
──もし、彼女に終わりが来るのなら。
その時、僕は、見送るだけでいられるのだろうか、と。
その問いは、まだ答えを持たないまま、静かに次の夜へと続いていった。




