第1話「死の時刻が見える僕」
人の頭上には、必ず数字が浮かんでいる。
それは時計のようで、砂時計のようでもあった。
──残りの時間。
秒針の音は聞こえない。だが確かに、それは減っていく。
誰にも見えず、誰にも知られず、等しく。
僕だけが、それを見ていた。
薄曇りの夕暮れ。
病院の屋上に立ちながら、僕は今日三人目の“見届け”を終えたところだった。
「……二十三時四分。予定どおり」
小さく呟くと、空気がひとつ、ほどける。
人の死は、悲鳴や涙で溢れていると思っていた。
けれど実際は、驚くほど静かだ。
息が止まる。
それだけ。
魂が身体から抜ける瞬間、風の向きが変わる。
それが、僕にとっての合図だった。
「回収完了」
耳元で、冷えた声が響く。
振り返ると、黒衣をまとった上司が立っていた。
死神界でも特に古参の存在で、顔の輪郭はいつも霧に曖昧だ。
「実習三日目にしては、手際がいいな」
「……慣れただけです」
慣れたくなんて、なかったけれど。
「感情の揺れは?」
「ありません」
嘘だった。
毎回、胸の奥がほんのわずかに痛む。
それでも表情に出してはいけないと、僕は教えられてきた。
死神は、感情を持たない。
持ってはいけない。
「よし。次の観測地点へ向かえ。人間界での実習はまだ続く」
上司の姿が霧に溶けると、屋上には再び夕風だけが残った。
僕は柵に手をかけ、街を見下ろす。
ビルの灯り。
車の流れ。
帰路を急ぐ人々。
その一人一人の頭上に、無数の数字が浮かんでいる。
数日。数年。数十年。
そして時折、驚くほど短い数字も。
「……」
僕はそれを数えるのを、やめた。
これは訓練だ。
そう言い聞かせることでしか、ここには立てない。
死神見習い。
それが、今の僕の肩書きだった。
人間界での仮の姿は、高校生だった。
制服を着て、鞄を持ち、誰とも深く関わらない。
クラスメイトの名前も、半分は覚えていない。
関われば、必ず数字が目に入るからだ。
昼休み、窓際の席でパンをかじりながら、僕は校庭を眺めていた。
そこには、いくつもの運命が歩いている。
ふと、視界の端に違和感が走った。
「……?」
視線を向けた瞬間、息が止まる。
校門の外。
春の風に髪を揺らしながら、少女が立っていた。
白いワンピース。
少し痩せた身体。
陽の光に透けるような輪郭。
けれど──
「……ない?」
彼女の頭上には、何も浮かんでいなかった。
数字が、存在しない。
ありえない。
生きている人間には、必ず死の時刻が表示される。
それは生まれた瞬間に刻まれ、誰一人例外はない。
なのに彼女は、まるで“最初から対象外”のように、空白だった。
胸の奥が、ざわつく。
見間違いかと思い、何度も目を凝らす。
だが結果は同じだった。
「……」
少女は一度、校舎を見上げると、小さく笑った。
その笑顔が、なぜか胸に引っかかった。
放課後。
僕は無意識のうちに、校門へ向かっていた。
合理的な理由はない。
ただ、確かめたかった。
彼女が、存在しているのかどうか。
校門の近くのベンチに、彼女はいた。
膝の上にノートを置き、何かを書いている。
「あの……」
声をかけた瞬間、自分でも驚くほど喉が震えた。
少女は顔を上げる。
「はい?」
近くで見ると、思ったより幼く、けれど瞳は不思議なほど落ち着いていた。
「あ、いや……その……」
言葉が続かない。
死神として、人間に自分から話しかけることは推奨されていない。
観測対象であり、接触は最小限。
それでも、口が勝手に動いた。
「……ここ、よく来るんですか」
なんて、どうでもいい質問。
少女は少し驚いたように目を瞬かせ、それから笑った。
「うん。病院の帰りに」
「……病院?」
「持病があって。まあ、慣れっこだけどね」
その言葉に、反射的に彼女の頭上を見てしまう。
やはり、何もない。
死の気配すら、曖昧だった。
「君は?」
「……僕は、通ってるだけです。ここの学校に」
「そっか」
短い沈黙。
それなのに、不思議と居心地が悪くなかった。
「私、ミオって言うの」
彼女はそう言って、ノートを閉じた。
「あなたは?」
一瞬、名を告げるのをためらった。
死神見習い・ユウト。
本当の名前を口にするのは、どこか怖かった。
「……ユウトです」
「ユウトくん」
名前を呼ばれただけなのに、胸の奥がかすかに揺れた。
その瞬間、確信する。
この少女は、僕の知っている“世界の法則”から外れている。
そしてきっと──
関わってはいけない存在だ。
「また、会える?」
ミオがそう尋ねた。
夕焼けの中で、あまりにも自然に。
「……分かりません」
それが正直な答えだった。
「じゃあ、会えたら奇跡だね」
彼女はそう言って、軽やかに立ち上がった。
「今日はありがとう。ちょっと元気出た」
そう残して、彼女は歩き出す。
その背中を、僕は止められなかった。
夜。
人間界の空を見上げながら、僕は一人立っていた。
「……報告案件だな」
上司の声が、背後から響く。
「死の時刻が見えない人間を確認しました」
「……見間違いではないのか」
「断言できます」
沈黙。
長く、重い沈黙だった。
「関わるな」
やがて、低い声が告げる。
「それは世界の誤差だ。深く触れれば、お前の存在が揺らぐ」
「……はい」
返事はした。
けれど脳裏には、あの笑顔が焼きついて離れなかった。
死の時刻が存在しない少女。
今日が最後みたいに笑う、その姿。
胸の奥に、今まで知らなかった感覚が芽を出していた。
それはきっと──
死神が、最初に失うべき感情。
名前をつけるなら。
恐れと、願いのあいだに生まれたものだった。
夜風が吹く。
どこかで、誰かの数字がひとつ、静かに減った。
そして僕はまだ知らない。
この出会いが、“命を延ばせない理由”へと繋がっていくことを。




