おくりがさ
笑美は知らないお家の前、車を止めるスペースの屋根の下から首をかしげて空を見上げた。
どんより厚い雲が七月の夕空を覆い、滝のような雨を降らせている。先ほど不意にはじまった豪雨は、一向にやむ気配がない。
「梅雨明けしたって言ったのにぃ」
今朝見たテレビの天気予報では、確かにそう言っていた。もっとも「梅雨明けしましたが」の後はよく聞かなかったし、今日の降水確率も確認しなかったのだが。
お天気おねえさんへの憤りにぴょんぴょん跳ねると、背中のランドセルもばたんばたんと笑美に賛同する。笑美が中学生になるまで、あと数か月。くたびれはじめたランドセルも、これ以上過酷な労働は遠慮したいところだろう。
「うー」
空に唸ってみても、雨はやまない。
無断で雨宿りに使わせてもらっているこの家の人か、それとも通りすがりの親切な人が「傘を貸してあげようか」などと声をかけてくれないか。そう思っても、激しい雨の中に姿を現す人は誰もいない。
お父さんもお母さんもまだ仕事が終わる時間じゃないから、傘を持って笑美を迎えに来てくれるはずもない。
ずぶ濡れになって走るしかないなと笑美が諦めかけた時、びゅうっと強い風が吹いた。
「ひゃあっ」
雨粒に顔を打たれ、眼を閉じて一歩下がる。もう最悪、と呟いて目を開けると、笑美の前には一本のビニール傘が転がっていた。
風に吹かれて飛ばされたか転がされたかした、銀色に光る金属の骨を持つ透明なビニール傘が、開いたままで笑美の前に転がっていた。
びっくりして目をぱちくりさせ、辺りを見回してみる。
誰もいない。傘を飛ばされて困っている人は、どこにも見当たらない。
どうしよう? 拾っていいのかな? 泥棒って言われないかな?
笑美が迷っていると、小さく風が吹いた。ビニール傘が風に吹かれてころんと半回転し、プラスチック製の白い柄が笑美のほうへ向いた。
もう一度だけ辺りを見回してやっぱり誰も居ないことを確認すると、笑美は傘へと手を伸ばした。
「お、お借りします」
掴んだビニール傘の柄は濡れていたけれど、このまま雨に降られて駆け出すことにくらべればなんてことはない。白く滑らかな傘の柄をしっかりと握りしめる。
滝のように降り注ぐ雨の中、ぼむぼむと傘を叩く雨音の意外な大きさにびくびくしながら、笑美は家へと歩きだした。
大人用の大きなビニール傘は、笑美もランドセルもまとめて守ってくれる。まあちょっと、ほんの少し、雨の激しさに負けて靴と靴下はぐっしょりと濡れてしまったけれど。
笑美の家まで、傘をさして歩いて十五分ほど。
やっと帰り着いて安堵の息をつき、玄関先の屋根の下でビニール傘を畳む。
左手でビニール傘の柄を持ったまま、ポケットから家の鍵を取り出そうと笑美が傘から右手を離した時、
ばふっ!!
大きな音をたてて、ビニール傘が再び開いた。
びっくりして笑美が柄から手を離すと、びゅうっと風が吹いてビニール傘が空へと飛びあがる。
傘を閉じる留め具が壊れでもしていたのだろう。あの傘はきっと同じようにもとの持ち主のもとから飛び去って、笑美のところへとやって来たのだ。
塀を飛び越え道を転がり雨の中へと姿を消すビニール傘へ、笑美は大きな声で叫んだ。
「ありがとー!」
それから数日後。
また笑美は知らないお家の前、車を止めるスペースの屋根の下から首をかしげて空を見上げた。
まったく同じだ。七月の夕空を覆う厚い雲が、滝のような雨を降らせていた。
「ううーっ」
今日は降らないと思ったんだもん、とランドセルと一緒に地団駄踏んでも、雨も負けじとブロック塀を、屋根を、道路を叩くだけだ。
明日からは毎日傘を持ってこよう、と笑美は心に決めた。
空に雲がひとかけらも浮かんでいなくても、お天気おねえさんがどれだけ晴れると言い張っても、これから毎日傘を持って学校に行こう!
そんな極端な誓いを笑美がたてた時、びゅうっと強い風が吹いた。
「ひゃあっ」
雨粒に顔を打たれ、眼を閉じて一歩下がる。あれこれってこの前も、と思いながら目を開けると、笑美の前に一本のビニール傘が転がっていた。
風に吹かれて飛ばされたか転がされたかした、錆びはじめた金属の骨を持つよれよれの透明なビニール傘が、開いたままで笑美の前に転がっていた。
目を見開いてさらに一歩下がる。
これはあの傘だ、と笑美は確信した。あの日、笑美の前に飛ばされてきたビニール傘が、また同じようにやって来たのだ。
顔をビニール傘に向けたまま、目だけをきょろきょろと動かして周りを探る。
豪雨の中、笑美の他には誰も外に出ている人はいない。
笑美のもとへビニール傘を投げてよこす人など、居るはずはない。
再び傘へと視線を戻し、笑美はひゅっと息を呑んだ。
プラスチック製の白い柄が、笑美のほうへと向いていた。さあどうぞ、手に取ってください、使ってくださいと言うように、泥に汚れてひっかき傷のあるの傘の柄が待っていた。
もちろん傘が飛んできたのは偶然だ。これがあの日と同じ傘だったとしても、それは奇跡みたいな偶然の結果だ。ビニール傘が笑美を探して自分で動いてきたなんて、そんなはずがないことは小学生の笑美にだってわかっていた。
わかっていたのだが、どうにも不気味だった。かたかたとランドセルも震えている。
ビニール傘へ顔を向けたまま、上目遣いに空の様子を伺ってみる。
まだやむ様子のない激しい雨のなかに駆けだしていくのは、嫌だった。
誰が助けに来くるわけもないこの場所で、ビニール傘と向き合っているのだってやっぱり嫌だった。
じゃあ、結局こうするしかないのだ。
ビニール傘の柄を掴む。転がってできたひっかき傷がざらつく。くっついた泥が指と爪の隙間に入り込む。
傘を頭上にさしてみる。視界の端に映る、うっすらと錆の浮いた銀色の骨。
雨の中へ踏み出してみる。ごわごわと伸びはじめたビニールを雨が打ち、ぼむぼむだるだるとおそろしい音が鳴り響く。
泣きそうになりながら、いや実のところ半分泣きながら、とぼとぼと歩いて十五分ほど。
やっと帰り着いて玄関先の屋根の下に潜り込んだ時、笑美の靴と靴下はもちろんのこと、ガタのきた傘から漏れた雨水で髪の毛もランドセルもじっとりと濡れていた。
びゅうっと吹いた風の中へ、笑美はビニール傘を放り出す。
塀を飛び越え道を転がり雨の中へと姿を消すビニール傘を、笑美は涙を浮かべ唇をひん曲げて見送った。
それから一週間後。
またまた笑美は知らないお家の前、車を止めるスペースの屋根の下に居た。やはり大きな音をたてて雨が降り注いでいる。
しかし今日は一味違う。無力に雨宿りする小学生は、もう居ない。
笑美は下ろしたランドセルをいそいそと開けると、真新しい折り畳み傘を取り出した。
マジックテープをべりりと剥がし、スイッチを押す。
ばしゅっ
小気味のいい音をたて、笑美の目の前に青と紫のアジサイが咲いた。
お母さんと「友達にねだられても絶対に貸さない」「近くに人が居るところでは開かない」「上に重い物を乗せない」そう約束して買ってもらった、笑美の傘だ。
とても軽いし畳めば小さいので、毎日ランドセルに入れていても邪魔には感じない。それになにより、内側からも見えるアジサイ模様がとてもキレイなのだ。
今日は夕方から雨が降ると分かっていたのだけれど、この折り畳み傘を使いたくてたまらなかった笑美は、普通の傘を持たずに学校に行ったのだ。
曇り空の下でも鮮やかなアジサイの色彩にうっとりしながら、笑美はランドセルを背負いなおして
硬直した。
笑美の前に一本のビニール傘が転がっていた。
風に吹かれて飛ばされたか転がされたかした、開いたままの、錆びてねじ曲がった金属の骨を持つぼろぼろに穴の空いたビニール傘が、笑美の前に転がっていた。
ビニール傘から目が離せず、笑美は首を振って後退りした。
風が吹く。ビニール傘が転がる。プラスチック製の柄が笑美へと向く。さあどうした、手に握れ、使うがいいと言うように、泥まみれでひっかき傷だらけの傘の柄が待っていた。
首を振ってつぶやく。
「使わないよ」
風が吹く。がりっと地面を引っかいて傘が笑美のほうへと近づいた。
身を守るように折り畳み傘を前へ突き出して言う。
「今日は傘持ってるよ」
青と紫のアジサイの向こうで、またがりっと傘が地面を引っかいた。
目を閉じて叫ぶ
「もういらないんだよ!」
びゅうっと背後から強い風が吹いた。
「あっ!」
風にもぎ取られ、笑美の手から折り畳み傘が飛ぶ。
飛んだ折り畳み傘が、ビニール傘にぶつかる。
二本の傘が風にあおられ、一緒に空へと舞いあがる。
最初はがつんがつんとぶつかり合っていた折り畳み傘とビニール傘であったが、笑美が見送るうちにまるでじゃれあう二匹の子犬のようにくっついて、くるくると絡み合ったまま高く、高く飛び上がっていく。
いつの間にか雨はあがり、二本の傘が飛んでいく先から夕日が差し込んでいた。
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