4. わたくしは政敵の娘ではなく辺境伯夫人です
妻として役目を果たしたいローズ…
「白い結婚」にこだわり続けるヘンリー…
ついに二人が正面衝突してしまいます。
再契約書類を辺境伯さまに承認していただけるよう、わたくしはブラントに託しておきました。直接渡すよりも、認めていただける可能性が高いと思ったからです。少しだけれど、受け入れてもらえている……そう思ってしまったことが間違いだったのかもしれません。あの朝……まさか「あんなこと」を言ってしまうなど、想像もしていませんでした。
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「ブラント、これは何だ?」
いつものように執務室に向かう移動中に、ブラントから見慣れない文字の書類を渡される。どうやら辺境伯邸の使用人の仕事内容、新しい勤務時間や給料についてが丁寧にまとめられているようだった。
「よくできているな。」
執務室で机に向かい、あらためて目を通すと、その完成度に思わず感心する。
「奥さまがまとめられたものです。」
「……何?」
声が荒くなる。離れに移ってからのローズの様子は相変わらずわからないままなのに、その最初の"報告"にあたるものがこの書類だというのか?
「何をしているのだ。」
思わずため息をつく。妻としての最低限の務めさえ果たしてくれれば、それでよかった。離れで静かに、自分の好きなことだけをして、白い結婚と割り切った三年間を穏やかに過ごしてくれれば、それでよかったのだ。なのに、自分の手元にはどう見てもローズが自ら行動し、屋敷の仕事をしているという"証"がある。
「ブラント、なぜローズが仕事をしているのだ。」
声に怒気がにじむ。
「奥さまは、辺境伯邸の主として、そうあろうと務めを果たそうとされております。」
「だからなぜ、そんなことをしているんだと聞いているんだ。」
「奥さまの希望だからです。」
「そんなことをする必要はないと、知っているだろう。」
「わたしは旦那さまから『奥さまの希望を叶えるように』と命じられました。」
「それは……。」
ブラントはわたしの命令に忠実に従っただけだ。わかってはいる。だが、納得がいかない。ローズに苦労などさせたくなかった。でも手元の書類はとても丁寧に作られていて、ローズが使用人をどれだけ大切に思っているかを雄弁に語っている。
「旦那さまからご承認をいただきたいと、奥さまより申し出がございました。いかがなさいますか?」
もう一度、書類に目を通す。わたしの妻は、とても優秀だ。この内容を無視することなど、たとえ相手が妻であっても……いや、妻だからこそ、できない。
「……とてもよくできているな、お前に任せよう。」
「奥さまは、お喜びになられるでしょう。」
「あぁ。」
自然と笑みがこぼれる。あんな冷たい態度をとったにもかかわらず、その夫の屋敷の人間をここまで思いやってくれる。彼女はやはり、あの時の優しい彼女のままだ。
あの王命さえなければ……。
幸せな結婚ができたはずの彼女の運命を狂わせたのは、ほかでもない、政権のバランスを読み間違えた自分に責任だ。
「旦那さま。」
ブラントの声に顔をあげる。気づかぬうちに深刻な顔をしていたらしい。
「奥さまにお会いしてください。……旦那さまにも、それが必要なことだと思います。」
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レナルド侯爵家では、母が屋敷のことはすべて取り仕切っておりました。父は王宮内での仕事が多忙で屋敷を開けることも多く、必然的に領地のことは兄に引き継いで任せていると聞かされていました。そんな侯爵家にあって、わたくしには"できること"がありませんでした。蝶よ花よと大切に甘やかされてはおりましたが、侯爵家のことに関しては「知る必要はない」と父から告げられていたのです。わたくしも家のために役に立ちたかったのですが、今思えば…いずれ他家に嫁ぐとわかっている娘に、侯爵家の内情を知らせたくなかったのかもしれません。
「奥さま、辺境伯家は代々、国境防衛と魔物退治が領主さまの仕事として大きな比重を占めていることもあって、領地や屋敷は、歴代のご夫人たちが守ってきたのですよ。」
わたくしが初めての手がけた再契約書の仕事が辺境伯さまに認めていただけたと、ブラントから報告を受けたときのことです。早速、新しい勤務体制が導入され、わたくしはブラントとアンナに微調整に協力してもらい、できるだけ使用人たちの希望に沿って働く環境を整えていきました。そして少しずつ、かれらとの距離が縮まったことを実感できるようになったころ……ブラントが夫人の辺境伯家での役割をそっと教えてくれたのです。
そして、そのときわたくしは思いました。
(わたくしにできることが見つかったのかもしれない。)
そう思えて、少し……ほんの少し希望をもってしまったのです。
「わたくしが、その役目を引き継ぎたいと願えば、協力してくださいますか?」
わたくしの問いに、ブラントが優しく微笑んで頷き返してくれました。忙しい方に時間を取らせることがとても申し訳なく思いましたが、彼ほど頼れる人を、わたくしは他に知らないのです。
こうして、屋敷の労働環境を整えることに見通しがついて、次にわたくしが望んだのは、辺境伯領そのものについて学ぶことでした。
「奥さま、理由を伺ってもよろしいですか?」
辺境伯家に仕えて長いであろうと想像ができる家令のブラントが、領地の歴史を学びいずれ経営についても教わりたいとお願いした時に困惑した様子で遠慮がちに問いかけてきました。
「わたくしは辺境伯家に嫁いでまいりました。ですから、辺境伯夫人として代々受け継がれてきた役割を果たしたいと思っております。そのために学べること、学ぶべきことはすべて学んでおきたいです。」
わたくしは願いが届くよう、まっすぐにブラントを見つめました。けれど、同時に聞かなければならないことがあることも理解していました。
「でもその前に、あなたから辺境伯さまにお伺いを立てていただかなければならないですね。歴史も経営も、旦那さまの許可がなければ叶わぬことと理解しております。領地に関して、ましてや領地経営に関しては特に、辺境伯さまに懸念があるやもしれません。」
(わたしは厄介者……妻としては認めていただいていないのですから、これは叶わぬことかもしれませんけれど……。)
「許可なしで踏み込むべき領域でないとわかっております。ですから、確認をお願いいたします。」
嫁いでから一度として顔を合わせたことがない辺境伯さま。わたくしはやはり"妻"ではないのでしょう。実家ですら大切な役目は与えてもらえなかったのです。この辺境伯家でも……。内情を知られることを良しとはされない……そう覚悟しておいたほうが良いでしょう。
「かしこまりました。」
ブラントは辺境伯家に仕えて長い、信頼のおける使用人のはずですから、彼からの助言であればあるいはこの願いを聞き入れていただけるかもしれない。わたくしは、そう思ったのです。
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ヘンリーは、ブラントにローズに会えと言われてから、ずっとどうすることがいいのかを真剣に考えていた。けれど、ローズと長時間接触すれば、自分の気持ちが露見してしまうだろうと本気で思っている。その最悪の状況は避けなければならない。
「なぜ、王命が下ってしまったんだ。」
一日中頭をもたげながらも、無視し続けた感情があふれ出し、たまらなくなって酒を煽る。ヘンリーにとってこの結婚は、違う意味での強制命令だった。
(ローズには辺境伯として地盤を固めてから婚約の申し込みをするつもりだったのに……。)
王命で望まぬ形の婚姻をローズに結ばせてしまったこと。大切にしたいと初めてそう思えた相手に、強制的に結婚させてしまったこと。何度考えても、この婚姻を自分が望む「しあわせな家庭」にすることができない。思考が袋小路に迷い込んで、どこにもたどり着けない。
「旦那さま。少しよろしいですか?」
危うく負の感情に吞み込まれそうになった瞬間、扉がノックされた。
「ブラントか?……入れ。」
ブラントが寝室を訪れることは滅多にない。しかし、真剣な面持ちで部屋に入る様子から、ただならぬ気配を感じる。
「どうした。」
「奥さまのことでございます。」
またか……。何度この会話をすれば気が済むのだろうか。少しいら立ちが募る。
「お疲れのご様子ですので、端的に申し上げます。辺境伯家の歴代のご夫人たちは、領地経営に深く関わっておいででした。……奥さまにもその役割をお与えいただけませんか?」
「領地経営を任せたいと?」
「奥さまはとても優秀です。そして、努力家でもある。資質は充分にございます。」
「白い結婚と決めている以上、妻としての役割を求めるわけにはいかないと、理解しているのではなかったのか?」
「奥さまが『領地を守りたい』とお望みです。」
「お前にそこまで言わせるとはな……。」
皮肉めいた答えが口をつく。ブラントは祖父の代から辺境伯家に仕え、父が家督を継いでからは、中枢で重要な役割を担ってきた。若くして辺境伯を継承した自分も、ブラントに支えてもらってきたのだ。その彼が認めた夫人……ということか。自分の中の葛藤がさらに大きくなる。
「なぜそこまで『白い結婚』にこだわるのです?」
同じ言葉を幾度となく繰り返すのは、自分を納得させようとしている証拠なのかもしれない。そんな浅はかな考えを見透かされたようでたまらなくなった。
「明日にでも、ローズと話す。今夜は一人にしてくれ。」
ほとんど反射的に答えていた。ブラントは一礼すると、静かに去っていった。
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いつもは静かな離れの朝に、突然の前ぶれがあり、辺境伯さまがいらっしゃると通達がありました。婚姻の日から顔を合せなかった辺境伯さまは、今まで見た中でも一等険しい面持ちで、サロンへいらっしゃると静かにわたくしに話しかけていらっしゃいました。
「領地経営にかかわりたいと聞いたが?」
(静かな物言いではありますが、笑顔も挨拶もない様子から、お怒りであることは明白……ですわね。)
覚悟はしていましたが、ハッキリとした否定の態度はやはり容赦がないです。
「君がそんなことをする必要などない。」
あの初夜の夜、辺境伯さまは妻としての役割を求めていないと、そうはっきりおっしゃっておりました。その言葉に逆らったのはわたくし自身です。自覚はありました。けれど、辺境伯さまの言葉に黙ってうなづくことはできませんでした。わたしはこの辺境伯領を居場所にしたいと願ったのです。みなさんの笑顔が好きだと気づいたのです。だから、その笑顔を守らせてもらいと願ったのです……それがいけないことだったのでしょうか。わたくしがどれだけ願ったとしても、その思いは否定されてしまうのだと、胸の奥に鈍い痛みを感じました。
……そして気づいてしまったのです。
「わたくしを政敵の娘として扱っているのは、この屋敷で……辺境伯さまだけですわ。」
(政敵の娘、そうとしか見てもらえないなら……わたくしは、もうどうすることもできないではありませんか……。)
辺境伯さまにとってわたしは"妻"ではないのです。屋敷の人々と深くかかわることを好まず、おとなしく離れでひっそりと暮らしていればいい。そうお考えなのだと理解しました。そして、その命令に背いたわたくしに、辺境伯さまが憤るのは当然のことなのかもしれません。
「最低限の妻の役割だけを果たせばいいと言ったわたしの言葉を無視したのは君だろう。そんなにわたしの言うことが気に入らないというのなら、好きにすればいい。わたしは君の希望を叶えるようにブラントに命じておいた。……これからも、そうすればいい。」
この言葉が決定打でした。辺境伯さまは一度もわたくしを見ようとすることなく、まっすぐに出口へ歩いていかれました。ほんの一瞬、彼の足が止まったようにも見えましが、やはり振り返ることはなく、その背中はそのまま遠ざかっていきました。そしてわたくしは、ただ閉ざされていく扉の向こうへ去るその後姿を見つめることしかできませんでした。
お互いを思っているのに
悲しいほど平行線のすれ違いが
とうとう初の夫婦喧嘩をおこしてしまいましたね。
次回「王都へ…逃げましたね」です。
ぶつかることは悪くない…ハズと思いたい。
でも和解しなければ関係はもっと複雑になるのは明白ではないでしょうか…。
だからこそ逃げちゃいけないですよね…ヘンリー、
「逃げ」は絶対悪手ですよ。
「次回も頑張れよ~」「また読むね」という意味を込めて
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