17. それぞれの夜、それぞれの想い
それぞれの朝とそれぞれの夜……
繰り返す後悔と痛みを越えて
会いたい――
その気持ちだけを胸にヘンリーは愛馬と共に闇を駆け抜ける。
ロゼが目覚めるころの静寂とは対照的に、子供たちが起き出す慌ただしい朝にも、だいぶ慣れた。
大勢で食卓を囲みながら、にぎやかな朝食を楽しむ。
いつものように菜園の土に手を入れると、ひんやりとした感覚が指先に伝わる。
自給自足を目指して始めた菜園は、順調に育ち、修道院の生活が少しずつ安定してきた。
「さぁ、水やりのお当番は誰だったかしら?」
シスターメアリーの呼びかけに、子供たちが率先して手をあげる。
自主性が芽生え、進んで仕事をする様子に笑みがこぼれる。
子供たちのはじけるような笑顔が眩しい。
「子供たちの笑顔……お腹いっぱい食べられるって、やっぱり大事なことだわ。」
誰もが楽しそうに笑いながら走り回っている風景に、いつだったかの辺境伯領での出来事を思い出す。
「奥さま、これとてもおいしいです。」
「子どもたちが、大喜びで野菜を食べてくれるんですよ。すごいです!」
厨房で試行錯誤しながら、領民においしく野菜を食べてもらおうと工夫を凝らしたこと。
笑顔でその政策の成功を告げてくれた領民のみなさんの顔……
「これで、よかったはず……」
手が止まり、胸の奥がぎしぎしと軋むのを感じた。
深く息を吸い、空を見上げる。
「今日も穏やかで、幸せな一日を過ごせますように……」
ロゼは胸が痛むたびに、空を見上げ、心の中で静かに祈った。
それが自分を救う手立てであり、前へ進む勇気になっていたからだ。
***
一日が終わる……
夜の静寂が、薄暗がりの中にいくつもの思い出を連れてくる。
ロゼにとってはこの時間が、一番つらい……かもしれない。
「眠れない夜に、ラナが入れてくれた紅茶は、いつもわたしを救ってくれた。」
冗談交じりにヘンリーに厳しいことを言いながら、ラナはいつだって彼のことを大切に思っていた。
同じように、自分のこともよく見ていてくれたのだと……離れてから改めて知った。
「奥さまのなさっていることは、辺境伯領の未来を救ってくださる……素晴らしい提案です。」
社会貢献が一方的に終わらないように助言をくれたのに、不安になったわたしの心をすくいあげてくれたアンナ。
どこにいても、目が合うとにこりと「大丈夫」というように、笑って力強く微笑んでくれるルト。
どんな決断をしても、力強く頷いてくれるブラントにも、助けられてばかりだった。
(離れてわかることばかりだわ)
不安になる夜はあった。
それでも支えられ、笑顔に守られていた。
穏やかな気持ちで思い出せる夜は、そう多くはない。
締め付けられる胸の痛みには慣れても、目の奥に熱いものがこみ上げることは止められない。
「どうか、みんなが幸せで……そして、あの人も……」
闇に月明かりが溶け込むように、過去と今が混ざり合う。
目を閉じて深く息を吸い、また静かに祈る……
「みんなに幸せな日々が訪れますように。」
その"みんな"という言葉の中に、捨てたはずの過去の大切な人たちと、今の自分を支えてくれる大切な人たちの笑顔を思い浮かべる。
瞳を閉じたまま、肩の力を抜き、また息を吸う。
もう一度、自分を励ますように……
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同じ夜の静寂が、辺境伯邸にも訪れる。
一人でグラスを傾けることが増えたヘンリーは、後悔することにさえ苛立っていた。
「なぜ、黙って出ていった。」
正体不明の靄が思考を曇らせる。
愛している……そして、同じくらいの強い怒りを感じる。
そんな自分の感情を持て余し、苛立ちがさらに募る。
「婚姻破棄はしない。お前の思うように……動いてなどやるものか。」
届けることなく、手元に置いたままの離縁状を見つめる。
「提出していなければ、俺たちはまだ夫婦だ……」
卑怯だと知りつつ、希望を捨てられない。
そこにあるのは未練ではない……愛だ。
「妻として戻らなくてもいいんだ……無事でいてくれれば。」
両手を額に当てた姿は、祈りにも似ていた。
「君が無事ならそれでいい……」
飲みかけのグラスをテーブルに置き、窓の外の星空を見上げた。
***
辺境伯邸の朝は、いつもと同じようにやってくる。
食卓に座り、ヘンリーはふと、ローズの声を聞いた気がした。
「ヘンリーさま、こちらの資料を確認いただけますか?」
業務連絡のような朝食の会話……いや、ローズにとっては業務連絡の場としての朝食だったのだろう。
それでも、彼女の声が、笑顔が、食卓のあちこちに浮かんでは消える。
黙々と食事を終え、執務室へ向かう。
山積みの書類をいつものように整理し、領地からの報告書や帳簿を確認する。
「領民のみなさまに、聞き取りをしましたところ、食料への不安が感じられました。ブラントから、この辺境の領地では、育つ作物が限られていると教わりましたので、屋敷内で自家栽培を試み、もっとも収穫率がよさそうな芋の栽培から取り組むことにしたのです。」
ローズが取り組んだ領地内の食糧確保は、確実に数字となって領民を救っていた。
彼女が提案したレシピも、今では市場のあちこちで出店が見つけられる。
「アクセサリーまで、買っていただいて……わたくしに返せるものなど、ありませんのに……。」
視察と銘打って出かけたデート……
(返せるものなどないと、君はそう言ったな。)
「返しきれないほどの幸せをもらったのは、わたしたちだ。」
彼女が始めた改革は、どれも順調に成果をあげて、辺境伯領地を格段に豊かに変えた。
領民たちの笑顔も、子供たちの笑い声も、すべてにローズの優しさが溢れている。
昼下がり、仕事詰めになっている私を気遣ったブラントが、半ば強制的にお茶の時間を作った。
時間はできても、心は休まらない。
「出してしまえばすべてが終わってしまう……」
ローズの残した離縁状は、提出されることなく私室に置いたままだ。
見つめるたびに、胸の奥に絡みつく黒い後悔の影が、彼女を想い続ける愛とせめぎ合う。
そんな葛藤は、夕刻になっても治まることを知らず、夜になるとひときわ大きくなった。
「……どうして君は、黙って行ってしまったんだ。」
共に過ごしたわずかな時間――そのすべてを求めてやまない胸がじりじりと焦げ付く。
「今、どこに……」
孤独な部屋に、自分の声だけがやたらと大きく響く。
「無事でいてくれ……もう一度、君に会いたい……。」
星空を見上げる勇気もなくて、床に落ちた自分の影を見つめながら小さくそう呟いた。
そして長く静かな夜が、またやってきた。
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痛みを伴う夜をいくつか越えて、ロゼには長い夜に辺境伯家での出来事を思い出すことが、日課になりつつあった。
一日の出来事を振り返ると、領地でのたくさんのシーンが自然と蘇ってくる。
たくさんの幸せな思い出が、心を満たしていく。
そして同時に後悔とは違う疑問が浮かぶ。
(あの時なぜ、ヘンリーさまに「助けて」と言えなかったのかしら……)
父と敵対すると決めたとき、自分の中にあったのは"守らなければ"という強い気持ちだけだった。
でもそれは、一人で立ち向かわなければいけないことではなかったかもしれない。
「駒にはなりたくないと言いながら、妻の役目にこだわったのは自分だわ。」
勝手に自分の役目に期待して、応えなければならないと思い込んだ……そんな皮肉に苦笑いする。
そんな考えに気づいて、ある一つの仮説にたどり着いた。
王家に嫁げなかった自責の念と父との確執に縛られたロゼは、無意識に愛される価値などないと思い込んでいたのかもしれない……。
(侯爵家には戻れない。でも、辺境伯地にいてもいい理由はないのに……。
「なぜ、わたしはここに残ったのかしら?」
静かに自問自答してみる。
割り切れない想いが、浮き彫りになる……そして浮かんだヘンリーの笑顔。
「誰かの役に立ちたい……ってだけじゃない、わたしは、あの人の隣で生きていたかったんだわ。」
辺境伯領に残った理由は、気づけばとてもシンプルなものだった。
ヘンリーの隣にいられないなら、せめて近くにいたい。
そんな思いが、無意識にこの地に残ることを決めたのだ。
静かに深呼吸をして、気づいた想いを身体中に感じる。
無意識に探した腕には、想いを込めた組紐はなくなってしまった。
けれど、ヘンリーと共に過ごした時間――そのすべてが愛おしくて、暖かな想いに包まれている。
政略結婚の駒になることを拒否したのは、ヘンリーと共に生きたいと思ったからだ。
失った愛への苦しみは消えないけれど、自分の本当の気持ちに気づいたことで、何もかもが救われた気がした。
「あの方をお慕いしている……その正直な気持ちは、捨てなくてもいいんだわ。」
いつもより明るく感じる月の光に映し出された自分の影に、笑顔で語りかける。
ヘンリーへの想いを胸に抱いたロゼは、静かにその幸せを噛みしめ、明日へ向かう勇気を感じていた。
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後悔ばかりが募り、眠れない夜を幾度も過ごしながら、ヘンリーはどこへ行っても彼女のわずかな情報さえ聞き逃さないように、常に注意を払っていた。
そして、その懺悔と願いが女神に届いたかのように、ヘンリーはある噂を耳にする。
「辺境伯領のはずれの修道院が、生まれ変わったらしい」
「菜園ができて、子供たちが笑うようになった」
「元々は荒れていた修道院だったのに、まるで別の場所になった」
商人たちが口々に噂をする。
決して貧しくはなかったが、領地の端ということもあって、質素に暮らしていた修道院が、自給自足を叶え、余剰分を商人たちと取引するまでになったというのだ。
そこで暮らす子供たちは、読み書きができ、中には商人たちと利益計上の駆け引きまでできるという。
心臓が早鐘を打つ。
(――あの人がいる、あの人が生きている。)
もはやそれは、ヘンリーの直感だった。
商人たちが口にする噂の風景に、子供たちと笑うローズの姿が浮かぶ。
迷いも理屈も、自責も後悔も……一瞬で何もかもが吹き飛んだ。
「話したい……声が聴きたい……いや、ただ、会いたいんだ。」
何度も繰り返した「なぜ」だとか「どうして」という疑問は、もうどうでもよかった。
「馬を出す。」
慌ただしく帰宅して、開口一番の言葉に、ルトが戸惑う。
「ブラント、数日のスケジュールの調整を頼む。彼の地の修道院へ向かう。」
ただならぬ雰囲気に、ブラントは素早く外套を手渡し、軽く会釈して了承の意思を示す。
「何だよ、いきなり。」
状況がつかめないルトの声が、玄関を飛び出しそうな勢いで歩くヘンリーの後を追う。
「ローズが……多分、ローズがいる。」
ルトが息をのんだ。
「居場所が分かったのか?」
「いや……確証はない。直感だ。」
素早くこたえるヘンリーは、その一言でさえ答えることが惜しいといった慌てようだ。
「行ってこい。」
ルトがにやりと笑う。
一瞬だけルトと目を合わせると、ヘンリーが短くつぶやいた。
「あぁ。」
戦場に向かうような覚悟のある目をして、それでも口元にはわずかな笑みを浮かべていた。
「見つけたら、もう離すなよ。俺たちはここで待ってる。」
ルトのつぶやきは、ヘンリーには届かなかった。
いくつもの戦場を共に駆け抜けた愛馬に跨って、ためらわず手綱を握る。
あっという間に街が遠ざかる。
暗い森を駆け抜けながら、頬に感じる冷たい風は熱くなる身体には心地いいくらいだ。
早駆けの蹄の音に鼓動が重なる。
修道院の場所の確認だとか、届けていない離縁状だとか、立ち止まってしなければいけないことはあったかもしれないが、そんなものはどうでもよかった。
ただもう一度、愛しい人に会いたい。
――ローズのいる場所へ……
休むことなくひたすら駆けた。
信頼する主の心を知ってか知らずか、愛馬は疲れることなく闇の中を駆け抜けていく。
手綱を握る手にも感じる鼓動が走る。そして、全身を駆け抜けるように広がった。
その鼓動は、ローズに会えるという予感に全身を震わせた。
止まらない胸に募る想いが、決意としてヘンリーの瞳に宿っていた。
ゆっくりと朝焼けが広がる空は、まるで希望の光を宿しているようだった。
お読みいただきありがとうございます。
すれ違いと勘違いを繰り返し
少しずつ歩み寄った距離を引き裂かれ
運命に翻弄された二人ですが
今度こそ、ヘンリーにはローズを抱きしめてほしい――
ヘンリーのあふれる想いが
皆さまに伝わっていたら嬉しいです。
次回「『愛されない』と信じていたわたくしへ……」
とうとう、二人が再会です!
よかったら、ブクマしてローズをヘンリーを応援してあげてください。
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