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蟻の葬列、別れの予感

作者: 佐藤瑞枝

 マリーが死んだ。母が勤め先の薬局の前に棄てられていたのを拾ってきて十八年。マリーはすっかりおばあちゃん犬になっていて、犬用おむつをはいたまま歩くのもやっとだったという。

 「お葬式をするのよ」

 母が言った。

 「茉優花、帰って来れるでしょう」

 真っ先に葉月さんの顔が浮かんだ。あの鬼上司になんて言おう。マリーのお葬式は、「チーム葉月」のプレゼンの日だった。名ばかりのアシスタントのわたしが休んだところでどうってことない。けれど、あの葉月さんが許してくれるとは到底思えない。


 葉月さんには、親戚が亡くなったと伝えた。

 「それは、大変ね」

 あっさり休みを認めてもらえてほっとした。

 「でも、休む前にこれだけは仕上げて」

 資料の締め切りが一日早まってしまった。


 七時をすぎると、事務所の冷房は自動的に切れる。むわっと澱んだ空気が充満していて、吐いた息をそのまま吸っているみたいで気持ち悪い。資料に行き詰って、ちらっと葉月さんを見た。葉月さんは、眉間にしわをよせ、パチパチとキーボードをたたいている。

 声、かけづらいな。

 けれど、このままでは期日までに仕上がらない。

 意を決して、葉月さんに声をかけた。


 「葉月さん、ちょっといいですか」

 「なに?」


 画面に顔を向けたまま横目でちらりとわたしを見上げた葉月さんは、明らかにイラついた感じで、機嫌が悪かった。タイミング悪すぎだ。けれど、今聞いてしまわないと資料が仕上がらない。


 「あの、ここなんですけど、A社とB社のデータ、どっちを使いますか」


 わたしの質問に、葉月さんが目の前で大きなため息をついた。


 「何度も言ってるよね」

 「相談する前に、自分で考えてって」

 「三原さんがどっちのデータを使いたいのか、あなたの判断と理由を聞かせて」


 どうしよう。完全に怒っている。

 しどろもどろになりながら、なんとかA社のデータを使いたいとわたしは答えた。正直どっちでもよかったけれど、選ばない限り葉月さんから正解をもらえない。


 「ならA社でいいんじゃない」


 わたしの悩みなど、どうでもよかったみたいに、葉月さんが言った。席に戻るとどっと疲れた。おもりを乗せたみたいにずっしりと肩が重い。


 前々から思っていたけれど、葉月さんと仕事をするのは正直きついし、しんどい。小倉さんが上司だった時はこんなことなかった。わたしが困っていれば、すぐに手を貸してくれたし、わからないことを聞けばすぐに答えてくれた。

 自分がこわれないうちに、辞職願を出すか、葉月さんのいない部署へ転部希望を出したほうがいいかもしれない。



 朝ごはんを食べていたら、小さな羽虫が一匹ジャムのついたスプーンにとまった。

 「あ」

 わたしが声をあげると、羽虫はスプーンからはなれ、テーブルのまわりを飛びはじめた。


 パンッ


 びっくりするくらい大きな音がして、瑛くんが両手をはたいたのだとわかった。


 合わせた手をそっと開き、瑛くんがしたり顔で言った。


 「ほい、つかまえた」


 瑛くんが自慢げに見せた手のひらに、羽虫はぺしゃんこになってはりついていた。つかまえたのではなく、殺したのではないかと思う。

 羽虫がいなくなったことに、わたしはほっとしていた。けれど、それは殺していいことと違う気がする。


 「手、洗ってくるよ」


 瑛くんが席を立った。背の高い瑛くんは、洗面所へ続くドアをぬけるのにかがんで通らなければならない。瑛くんは、たよりがいのある恋人だ。優しくて行動力があるし、葉月さんの愚痴だって聞いてくれる。


 けれど、時々わからなくなる。さっきみたいなことがあると、余計に。羽虫のとまったスプーンを洗いながら、わたしの脳裏によみがえった。

 遠い夏の日、蟻の行列を焼いていた男の子。


 「すげぇ」


 くったくのない顔で、蟻の背中に花火の先を押し当てていた。前だけを見て、ひたすら歩いていた蟻たちは、上空からの突然の攻撃にどうすることもできなかった。


 ものの数秒で、真っ黒くカラカラなって、動けなくなった。


 「やめなよ」

 わたしは言った。


 「なんで」

 意味がわからない、とでも言うように男の子はそう言ってどこかへ行ってしまった。


 蟻の死骸が点々と散らばった砂の上を、大勢の人が行き来したのに、誰ひとり蟻に気づく人はなかった。わたしはとてもがっかりした。あの男の子をつかまえて、大人に叱ってほしかったのかどうかもわからないのに。


 洗面所から戻ってきた瑛くんに、わたしは言った。

 「なんか、かわいそうだったね」

 「なにが?」

 瑛くんがきょとんとした顔で言う。

 「だから、さっきの虫」

 わたしが言うと、瑛くんは大笑いした。

 「かわいそうなわけないだろ。俺らの食事を台無しにされてさ」

 今度はわたしが笑ってしまった。ジャムのスプーンに止まっただけで、大げさすぎる。


 「ねえ、瑛くんにはないの?」

 「なに?」

 「罪悪感みたいなもの」

 「あるわけないだろ。なんの価値もないただの虫なんだから。それより茉優花は俺に対して『ありがとう』はないのかよ。虫、退治してやったんだぜ」


 ありがと、と短く礼を言ってから、わたしはどこかで瑛くんのことを恐れているのかもしれないと思った。殴られたり、暴言を吐かれたり、そんなことは一度もない。それなのに、わたしの前で溌剌としている瑛くんが、あの日、蟻を焼いていた男の子と重なり、時々とても怖くなる。


 もしもわたしが羽虫で、瑛くんの手の甲にとまったら、瑛くんはもう片方の手でパチンとわたしをつぶしてしまうかもしれない。


 「茉優花はなぁんも考えなくていいからさ」


 出会った頃、瑛くんに言われると安心した。小倉さんが異動になって、葉月さんの下で働くようになって、日々うまくいかないことばかりだった。

 瑛くんといると、ぐちゃぐちゃ絡まっていた頭の中がほどけていくような感覚だった。瑛くんと一緒にいれば、どんなことがあっても大丈夫だと思えた。


 それなのに、いつからだろう。息苦しさを感じるようになったのは。


 「そんなの似合わないよ」

 「こっちの方が絶対面白いって」


 瑛くんのひとことで、わたしは気に入ったワンピースを諦めなければならなかったし、一緒に観る映画は、いつだって瑛くんの好みのジャンルのものばかりだ。

 きっと、わたしがわがままなのだ。瑛くんと二人で葉月さんの悪口を言い合っている時は、意気投合して楽しくしているのに、少しくらい好みが合わないからって瑛くんのことを悪く思うのは間違っている。



 「マリーの遺影の写真、どれがいいと思う?」

 拭き出しにそう書いて、母がマリーの写真を大量にLINEで送ってきた。わたしが選びあぐねていると、瑛くんがスマホを覗いてきた。

 「すげぇ、人間みたいだな」

 マリーの顔を見てそう思ったのか、犬に遺影を用意することについてそう言ったのかわからなかった。

 「ちゃんとお坊さんが来て、お経をよんでくれるんだって」

 「へえ、まるでお犬様だな」

 マリーは家族だよ、と叫びたくなって、開きかけた口をぎゅっと閉じた。瑛くんはマリーのことを知らないし、それ以上興味なさそうにわたしからはなれて、スマホをいじりはじめていたから。



 マリーの葬式を終え、会社に戻ると、葉月さんからお香典を渡された。

 「すみません」

 受け取らないのも変なので、礼を言って受け取った。嘘を言って休んだことを後悔した。香典返しを用意しなければいけない。プレゼンが無事すんだことは、同じチームの大沼さんから聞いていた。住む人のいなくなった空き家を宿泊施設にリノベーションするプロジェクトだ。

 「三原さんは、この物件の担当だから」

 相変わらず無茶ぶりだ。図面を渡される。何部屋とればいいのか、キッチンやバストイレはどうするのか、何も教えてもらえなかった。このまま設計し、葉月さんのイメージとちがうものを出したら、きっと何度もやり直しになるに決まっている。


 「あの、間取りはどうすればいいでしょうか」

 おそるおそる葉月さんに声をかけた。

 「自分で考えなさい」

 案の定、一蹴された。

 「最初からなんでも聞こうとしないで」

 葉月さんは、そう言って席を立ってしまった。


 図面ばかり見ていても埒があかず、思い切って物件まで足を運んでみることにした。都心から約一時間、駅前の商店街を抜け、じりじりと照りつける太陽の下、坂道を登った。

 坂を登りきったところに、その家はあった。


 かつて老夫婦が住んでいたという二階建ての広い庭付きの家。普通の一戸建ての優に二軒分はある。手入れのされていない草が伸び放題の庭に、黄色いコスモスが揺れていた。誰かを待ちわびているかのようだった。


 葉月さんは、どうして此処に新しい家を建てず、宿泊施設にすることを提案したのだろう。

 外国からの観光客が増えているから? ホテルより安いから、地方から学生もやって来るかもしれない。家族連れや友達同士、一人旅の宿泊客もいるかもしれない。それなら、部屋の間取りは宿泊人数で選べる方がいい。ペットも泊まれる部屋を用意したらどうだろうか? 想像が膨らんだ。新しい考えが浮かぶたび、わたしは嬉しくなって、時間も忘れ仕事に没頭した。



 葉月さんに図面を提出した。驚いたことに、大きなダメだしはなかった。図面の修正箇所はいくつもあったけれど、頭ごなしに否定されることはなかった。


 そのことを瑛くんに話すと、


 「機嫌がよかっただけじゃね」


 瑛くんはそう言って、どかんとソファに座り込んだ。


 「ほんっと、その葉月って女、とんでもないやつだね」


 ちがうよ、瑛くん。

 仕事、がんばったねって

 褒めてもらいたかっただけだよ。



 業者の担当者が来て打ち合わせがあるからと、葉月さんに呼ばれた。葉月さんと二人、エントランスで待っていると、どこから紛れ込んだのか、テーブルのふちをテントウムシが歩いていた。どうしたらいいだろう。気が気でなかったが、虫ごときに大騒ぎしたら叱られるかもしれない。葉月さんの手前、わたしは気づかないふりをした。


 葉月さんが、おもむろにシステム手帳を開き、真っ白なページをぴりぴりと破った。何をするのだろうと思ったら、葉月さんはあっという間に破ったページの上にテントウムシを乗せてしまった。


 そのまま丸めてつぶしてしまうかもしれない。

 わたしははっと息をのんだ。


 けれど、葉月さんはテントウムシを乗せた紙を平らに持ったまま立ち上がり、ヒールの音を響かせ外まで運んだ。

 わたしは思わずあとを追いかけた。

 きょろきょろあたりを見回してから、葉月さんは、植え込みのちょうどよい高さの葉っぱの上にテントウムシをうつしてやっていた。


 わたしをふりかえって、葉月さんが言った。


 「踏みつぶすとでも思った?」

 「そんなこと、するわけがないでしょう」


 葉月さんは、テントウムシを殺さなかった。



 「別れたい」

 八月の終わり、瑛くんにそう言ったら、

 「意味わかんないんだけど」

 と逆切れされた。


 わたしだって、うまく説明できない。瑛くんは虫を殺す。そんな理由、馬鹿げていることくらい自分でもわかっている。


 「俺と別れて、お前がどうなったって知らないからな」


 茉優花、ではなく、はじめて「お前」と呼ばれた。真っ赤な顔で立ち上がった瑛くんが、ものすごい顔でわたしを睨んだ。瑛くんが出て行く。ドアが閉まる直前、頭がゴツンと掠る音がした。それからしばらくの間、寝室にこもった瑛くんが乱暴に物を壁に投げつけている音が聞こえていた。


 眩しいほどのフラッシュがテレビから漏れていた。誰もが知る大物俳優と女優のカップルが破局したらしい。価値観の違いだったとアナウンサーが繰り返している。そっと瞳を閉じると、パンッと両手をはたく音と同時に焦げた蟻の死骸が目に浮かんだ。



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