固定電話
私がある地方のラジオ局の営業所の事務員をしていた頃のこと。
その事務所は小さかったが、固定電話が全員のデスクに一台ずつ設置されていて、私を入れても4人しか在籍していないのに、5台もあった。業務用のボタンがたくさん並んでいて、保留して別な電話に出たり、他の電話機に転送したりできるやつだ。
ワンプッシュの内線設定もされていて、1番が所長、2番がMさん、3番がFさんになっていた。外線が来た時にも、このボタンのどれが光るかで誰宛の電話なのか分かった。自分が保留ボタンを押せば自分の電話は緑に、他のすべての電話機の保留ボタンは赤く光った。
他の人たちは営業やら取材やらでほとんど事務所にいないので、たいていの電話は取ることになった。とは言うものの、そんなに頻繁にかかってくるわけではない。一日に数回、たとえかかってきても、いつ新しいテープが届くとか、何日までに領収書を送って欲しいとか、主に本社とのやりとりが多かった。
そんなある日。
その日は用事を済ませてから出社する日で、出勤した時にはもう誰も事務所にはいなかった。
電話もかかって来ない。喋る相手もない。しんとした中で黙々と書類を作っていた。と、ふと自分のデスクの電話機が目に入った。
保留中のボタンが赤く光っている。
はっとした。電話が繋がったままになっている。いつから? 少なくとも自分が出勤してからは電話は鳴っていない。その前からだ。
もし相手を待たせたきりなら、すぐに謝らなければ。慌てて電話を取ろうとして、ふと手を止めた。この事務所に自分しかいなくなってから、どれくらい経ったのか。誰がこの電話を取って保留にした? 「うちの事務所の誰だか知らんが失礼しました」とは言えない。誰が放置してしまったのかくらい確認しなければ。
急いで他のデスクの電話機を見て回った。Mさんのデスクの保留ボタンが緑色に光っていた。
Mさんはその日は取材先に直行だと言っていた。事務所には来ていない。他の人たちは自分のデスクの電話でしか受けない。それなのにMさんのデスク。
誰も受けたはずのない電話がいつの間にか繋がって、保留になっているということに気がついた。
いつの間に、どこの誰に繋がっているのか。
でも万が一、自分のいない間に、Fさんか所長がなぜかMさんのデスクで電話を受けて、保留にしてしまったのかもしれない。そしてすっかり忘れて出掛けてしまったのかもしれない。まだ電話は繋がっているのだ。相手がちゃんとした人なら、ほったらかしたことを謝らなければ。
Mさんのデスクの電話を取るのはなんだか嫌な感じがした。自分のデスクに戻り、恐る恐る保留を解除した。
「◯◯ラジオ◯◯支社です。もしもし……」
まだ繋がっている。しんとした電話の向こうの空気が受話器を通して伝わってくる。人の気配がない。
「もしもし。あの、すみません」
電話の周りに誰もいないのか? 向こうもこっちに電話を掛けて、保留にされたきり忘れてしまったのかもしれないな。
「もしもーし」
これで応答がなければ黙って電話を切ろうと思った。
ぷつん、と電話があちらから切られた。
ああ、やっぱり繋がったままだったのか、悪いことをしたなと思った。後でクレームが入るかもしれない。
ふとみんなの行動表の書かれたホワイトボードを見た。
その日は全員が現場直行になっていた。
「ICレコーダー」という短編と同じ事務所での話。
みんなが帰って来てから「誰か朝事務所に寄りましたか」と念のため聞いてみましたが、やっぱり誰も寄ってなかったです。