第十七章
「もはや限界だ。鬼の子よ。脆い人の体では、それ以上は保てぬ」
「………。」
唇を咬むシクナ。自分には、もう力は残っていないのか……。
「だが……」
鬼が不気味な表情で何かを呟く。シクナは何かに気を取られたと思った瞬間、自身の肉体が貫かれ、そのまま地面に縫いつけられていた。
「鬼の子よ。お前には本物の鬼となって貰う。そこで仲間が死ぬ様をゆっくりと見ているが良い」
「貴様――ッ!」
シクナは憎しみに牙を向くが、その牙が届かない。地面に縫いつけられたまま動くことが出来ない。
怒りが胸の奥に沸いてくる。憎しみの火が目の前を覆う。
「いい目だ……。憎しみと怒りを含んだ鬼の目だ……!」
「っ!!」
鬼が笹澄の兵士達に向けて進み出す。その場にいる全員が殺気に当てられ、恐怖に肉体が支配されるのが分かった。
「総員、今すぐ負傷した兵を連れて逃げよ!」
刃を構え、コウゲンが指示を出した。だが、その指示に困惑する兵士達。
「ここは我らが保つ! 急げ!」
アズマやシラユエも命令を出す。戸惑う兵士達を強引に先導した。
「ふん……!」
鬼が教官達の攻撃を諸ともせずに突き進んでくる。放たれたどんな魔術も鬼には通じなかった。
「ぐっ……!」
コウゲンが鬼の爪に切り裂かれる。アズマやシラユエも対抗するが、それを微塵も寄せ付けない強さで鬼は圧倒する。
サヤやクレナイ、ウクロなども加勢するが、戦況は圧倒されていた。
「ぐ、う……ッ!」
すぐさま主導師達二人を吹き飛ばし、一人無防備に残ったヒユネに爪を向ける。
「ヒユネ様! お逃げください!」
必死に兵士達が呼び掛けるが、ヒユネはその場を動こうとはしなかった。
――やめろ……。
もはや言葉を発せ無い身でありながら、心の中でシクナは叫ぶ。僅かな意識で、心が叫ぶ。
鬼と対峙したまま、ヒユネは呼び掛けた。
「ヤガラ・ハシン……! 貴方の里を思う心は、もう忘れてしまったのですか……!」
「無駄だ。既にこの身は鬼となった。呼び掛けても戻らぬよ……。最初から、この男に仲間を思う気持ちなど存在しないのだ……! クハハハッ!!」
「ふざけるな! お前に父上の何が分かる!!」
そう叫び、クゼンが鬼に飛び掛かる。鬼はその刃を片手で受け止める。
「父上を侮辱することは、この私が許さぬ!」
「愚かな人よ……。お前の父は仲間を思ってなどいない……」
そう言って、鬼はクゼンに向けて爪を突き立てた。
「ぐ、うっ……!」
肩を貫かれるクゼン。圧倒的な鬼の力の前に成す術がない。
「クゼン様! お下がりください!」
「ここでクゼン様を失うわけにはいかぬ!」
そうして、帳の忍び達が前に出る。それでも鬼は笑みを浮かべているだけだった。
鬼が爪を向ける。それだけでも震えが襲うが、忍び達は退こうとはしなかった。
「よせ……お前達……!」
「くくく……震える足で自ら死へ飛び込むとは……。やはり人間は理解できぬ……」
ニヤリと笑みを浮かべる鬼。その爪が忍びに突き立てられようとしている。
「………!」
しかし、そこでヒユネが前に出る。忍び達の盾となり立ちはだかる。
「鬼よ……貴方に人とは何か、分かることは無いでしょう……」
「兵士でもないのに、随分と見込んだ度胸だ、人間よ……。生身の人間ならば、我の前に立っているだけでもやっとのはずだが……」
そう答える鬼。目の前に立っているヒユネを見ては醜悪な笑みを浮かべるのだった。
「褒めてやろうぞ……くく……その愚かさと勇気を……」
そして、鬼の爪が振り下ろされようとしている。
「ヒユネ様! お逃げください!!」
サヤが叫ぶ。クレナイと共に、ヒユネを守る為に鬼との間に割って入ろうとするが、妖魔に阻まれる。
「ヒユネ様を守れ!!」
それでも必死に笹澄の兵士が立ち向かう。鬼に近づこうとするも、次々に瘴気の刃に切り裂かれていた。
次々に、兵士が倒れていく。
――死ぬな……! 皆……!
その光景を目にして、シクナが必死に手を伸ばす。だが、その手は地面に縫い付けられ届かない。
それでも必死に助けようとする。手の届かない場所へと手を伸ばす。
あの時のように……。かつて家族を失った時のように……。
二度と手の届かない場所へと言ってしまう。二度と会うことのできない遠い所へ。
今でも覚えている、その光景を――。
「う、ぐ……!!」
シクナは必死に抗う。もう失いたくない。
大切な家族を……。大切な存在を……。
失ってから気づく。失って初めて痛みを知った。
心が痛んだ。その時、初めて心を知った。
失って、初めて自分は人になれた……。
だが、あの時のような虚しい自分には戻りたくない。
掛け替えの無い存在を失いたくない。今度こそ、我は――。
大切な存在を守る……。
「くくく……。笹澄の巫女……。お前を失えば、他の者達はどんな顔をするのか……」
醜悪な笑みを浮かべて、鬼はヒユネに近付いた。
「私は、逃げたりはしません……。そして、仲間を見捨てたりもしません……」
「……?」鬼はその言葉が分からない。
「もう、私は……一人にはなりません……。この命も、皆と同じ……」
そのまま静かに目を閉じるヒユネ。今この場で仲間を見捨てて逃げる事は出来ない……。
「潔い事だな。だが、それでは面白くない故に……。巫女が悲鳴を上げ、じっくりと死に行く様を拝むとしよう……!」
そして、鬼の爪が――ヒユネに向けて振り下ろされた。
しかし、そこでヒユネと鬼の間に誰かが割って入る――。
「え……」
暖かさが胸に広がる。ヒユネは何が起きたのか分からなかった。
誰かが自分を強く抱き締める。暖かな感触が胸に広がっている。
とても暖かな――。
ヒユネは、その光景をすぐには理解できなった。
「シクナ……?」
シクナが、自分を庇うようにして鬼の爪に貫かれていた――。
声を上げるヒユネだが、深々と胸を貫かれたシクナからの返事はない。弱々しく何も無い。
血が辺りに飛び散る。血の海のように辺りを真っ赤に染める――。
ただ、それでも強く抱きしめる感触だけが残った。僅かな、暖かな感触だけが……。
――生きてください……ヒユネ様……。
シクナの言葉が胸に残る。何も出来ないまま、ヒユネはその言葉を聞いていた。
「う………」
シクナの目に、悲しそうな表情が映る。大切な存在が悲しんでいる。その表情を見て、シクナは思う。
その悲しそうな表情を見ていると、自分も悲しくなる――。
どうやったら、その心を癒やせるのか。
どうやったら、人に笑顔を齎せるのか……。
鬼の自分には、まるで分からない……。
「………。」
そのまま意識を失い、倒れ込むシクナ。息をする事も無く、静かに目を閉じた。
「………」
シクナの涙が頬を伝う。
「シ、クナ……」
ヒユネは、その表情から涙が流れているのが見えた。静かに、動かなくなったシクナを横にする。
――誰かを守るのが、人であるということならば……。
「はははっ! これは驚いた……! あの刺し傷でどうやって動いたのか……!」
鬼が高笑いを上げている。最後の面白い余興を目にして喜んでいるようだった。
「しかし、鬼が涙を見せるなど……情け無い。所詮は"人の子"だったと言うことか……」
「………。」
ヒユネは、目の前で起きている出来事が信じられないままでいた。
そして、涙を流して倒れているシクナに手を差し伸べる――。
「暖かいです……シクナ……」
胸に手を当てると、確かな暖かさがあった。暖かさで満たされている。
そうして、シクナの涙を掬い取る。
目に見える。手に触れられる。
「やっと見つけた……。やっと見つけました……。あなたの心を……。」
その嬉しさに、涙が零れるヒユネ。
輝くような心が――そこにある。
「貴方の愛が、とても暖かいです……」
胸が暖かさで満たされる。同じように涙がこぼれる。
とても悲しいはずなのに……。だけど、自分はその眩しいまでの輝きに涙している。
やっと見つけた……。人の心を……。
「さて、巫女よ。もう悲しむ暇など与えぬ。いま楽にしてやろうぞ……」
醜悪な笑みを浮かべて鬼が爪を振り下ろそうとするが、ヒユネはその場でシクナに手を添える。
「死人に手を添えても、動いたりはせぬぞ? 正気を失ったか……?」
皮肉るように鬼が哀れみの目を向けるが、ヒユネは黙って魔力を込めた。
「………。」
それは、今までに無い輝きだった。
強い光がシクナの体を覆い、血に染まった傷を瞬く間に癒していく。
「ぐ……!? 何だ……?!」
あまりの光に目を覆う鬼。何が起きているのかすら把握できなかった。
「……シクナ」
その名前を呼ぶ。優しく、心を込めてその名前を呼んだ。
その言葉をぼんやりと聞くシクナ。目を開けると、見慣れた表情が目の前にあった。
自分の名前……確かな存在の証。
人としての、確かな自分の名前――。
「ヒユネ様……」
言葉を返すシクナ。記憶が朧気で何があったのか分からない。だが、目の前には大切な存在が居る。
その目の前の光景に驚くシクナ。
「ヒユネ様……。泣きながら、笑っている……」
目を丸くするシクナ。涙を流しながら、ヒユネ様は笑みを浮かべている。その光景が、シクナには不思議でならなかった。
「人とは本当に不思議ですね……」
そう言って、同じように笑みを浮かべるシクナ。思わず自分も笑みが零れた。
これほど幸せそうに笑うヒユネ様を見て、自分も笑みが沸いてくるのだ。
心は――。
「やっと笑ってくれましたね……ヒユネ様……」
いつしか見なくなったその表情――。
「鬼の自分が……ようやく人を笑顔に出来ました……」
そう答えるシクナ。
「貴方が笑ってくれて……私も嬉しいです……」
見えない傷が癒えていく。手に取れない傷が治っていく……。
傷付け、刃を向けることしか知らなかった自分が――ようやく人を笑顔に出来た。
「貴方が居てくれたからです。シクナ……」
ヒユネは笑みを向けてそう答えた。とても暖かな愛が、自分の胸に伝わった。
鬼と人が、分かり合えた――。