オックスフォード・ノシーボ実験
バクークの声が無線からリガの耳に届く。
「まったく、あなたともあろう人がどうしたわけ? 敵が接近しているのに棒立ちだなんて。わたしとヤりすぎて注意力が散漫になった?」
「君には、熊が近づくのが見えていたのか?」と、ギレアドの声。
「雪に溶け込んで見えづらくはあったけどね。とにかく、あなたとお嬢ちゃんのお粗末ぶりときたら。最後、熊があんなにのろのろ動いているのに、首を軽く刺すのが精一杯だなんて。これに懲りたら、相棒はわたしに戻しなさいよ」
つまり、熊の認識阻害能力は、ごく近くにいる相手にしか効果がないということか。
まあ、そうでなくては今頃、全人類が食い尽くされていたろう。
ギレアドがいう。
「いや、彼女と熊の戦いは、そんな簡単な話じゃあーーって、おい!」
ようやくリガの状況に気づいたらしい。
〝手の平に〟と、ぼく。
リガは頷くと、コクピットから完全に這い出し、ぼくの手の上に落ちた。ぼくの苦しみが彼女にまったく届かなくなり、同時にぼくは身体を動かせなくなった。
ギレアドの機体が軋みながら近づいてくる。
あとのことは、彼に任せるしかない。
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「リガは大切に扱えといったはずだぞ」
ヤズデギルドがギレアドを睨んだ。
リガは母艦の医務室で手当てを受け、いまは窓際のベッドに横になっていた。窓の外の景色は、左から右へと動いている。母艦は順調に走行中だ。壁を走るスチームパイプはときおりカタカタ震え、パイプから高温の蒸気を受けたラジエーターが、室内をほかほかと暖めている。
ベッドの脇の椅子には、身体にフィットした操縦服を着たヤズデギルドが座り、隣のベッドで身を起こしているギレアドを〝詰め〟ていた。
ギレアドは頭に巻かれた包帯を指でかきながらいった。
「いや、まさかリガちゃんがこれほどの怪我をしていたなんて。たしかに熊の一撃を食らって吹き飛ばされはしましたけど、操縦服を着せていたんですよ? あの程度の負荷には耐えられるはずなんだけどなあ」
リガは脇腹に重傷を負っていた。
ついさきほど、船医が、担ぎ込まれた彼女の操縦服を脱がせると、身体の内側から巨大な鉤爪で引っ掻かれたような、線状のドス黒い内出血が見られたのだ。幸い、内臓系は無事だったが、巨人用再生液に浸かって全治三時間、浸からずに自然治癒させるなら全治二週間という診断だった。
船医は、自分の坊主頭をなでながら首をかしげた。
「操縦服の装甲板は割れていないのに、どうして身体の中身だけ負傷するんですか?」
ぼくは、格納庫で再生槽に浸かりながら、すぐにピンと来た。
熊との戦闘で、ぼくは脇腹の肉を抉られ、骨を砕かれた。
あのとき、ぼくと同化していたリガの脳は、究極のリアリティーで、自分自身の肉体が傷ついたと思い込んだのだろう。
思い込みの力はあなどれない。
たとえば、ぼくが勤めていた製薬会社では、新薬の治験のさい、かならず二組の集団を用意し、片方には開発された薬を、もう片方にはハッカを混ぜただけの錠剤を与えていた。
これは、参加者が「新薬は効く!」と信じていれば、その思い込み自体に、病を治癒する効果があるためだ。
ハッカの錠剤を与えただけの集団でも、20パーセントくらいの人間には、病状の改善が確認できてしまうのだ。
もし、この「盲検法」と呼ばれる形を取らなければ、新薬の本当の効果は、まともに判別できないだろう。
逆に、思い込みが人を傷つけることもある。
2018年にオックスフォード大学で行われた実験では、まったく無害な砂糖の塊が、「副作用の強い新薬」として試験参加者に与えられた。結果、参加した2万5000人のうち、4000人以上が、腹痛や食欲不振を訴え、うち数人は重度の胃潰瘍にまでなった。
ぼく自身も、ぼくに試乗してきたパイロットたちに、胃をひねるイメージを送り込み、嘔吐させている。
熊を追い払った直後、リガにもぼくの痛みが伝わっていると考えたが、そんな甘い物ではなかった。傷がそのまま伝わっている。
おそらく、万一、ぼくが指を切り落とされれば、彼女の指も落ちるし、ぼくの心臓の鼓動が止まれば、彼女の鼓動も止まる。
ぼくたちは、本当に一心同体なのだ。