豚人計画とリーク
いまとなっては、もう大昔のことのように思えるが、ぼくは、自社の創薬プロセスに深い懸念を覚えていた。
とはいえ、〝人豚計画〟を週刊誌にリークするのに葛藤がなかったわけではない。
会社からは良い待遇を得ていたし、友人である乃木沢を裏切ることにもなるからだ。
しかし、乃木沢に初めて人豚を見せられたときの体験は、あまりに強過ぎた。
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それは、社内倫理委員会の前日だった。
乃木沢が、「ぜひ、きみには先に説明しておきたい。頭の硬いじいさんたちを説得するには、俺一人じゃ足りないかもしれないからな」といって、深夜にぼくを招待したのだ。
研究棟内に作られた「肥育室」は、分厚いコンクリートで囲われた六畳ほどの部屋だった。壁の一面は強化ガラスになっており、研究員たちが豚の様子を観察しやすくなっている。
三頭の人豚たちは、光を落とされた部屋の中で、床に寝そべってまどろんでいた。
乃木沢が「こいつらは、じつに賢くて、大人しくて、かわいいやつらなのさ」と、いいながら電気のスイッチを入れる。
豚たちは、うっすらと目をひらき、ガラス面の向こうに立つぼくと乃木沢を見つめた。
途端に、豚たちは頭を振り回し、悲鳴のような声をあげ、蹄で強化ガラスを叩いた。
乃木沢が「なんだ? お前たち、突然どうした?」と、うろたえる。
豚たちは、助走をつけてはガラスに頭を打ちつけ始めた。強化ガラスが激しく震える。
乃木沢が、ぼくの肩を叩いた。
「なあ、誤解しないでくれ。知能は高いが、決して危険な生物ではないんだ」
「あ、ああ」
ぼくは、どうにか答えた。
人豚の外見は、たしかにふつうの豚なのだが、その顔には、人間としか思えない表情が浮かんでいた。
一際大きな衝突音とともに、ガラスにヒビが入った。ぶつかった一頭はその場に崩れ落ちた。脳震盪、いや、頭蓋骨が砕けたのか。血の泡を吹きながら四肢を激しく痙攣させている。
乃木沢が壁のボタンを操作すると、シャッターが降りて、豚とぼくとを隔てた。
乃木沢がいう。
「情緒不安定なのは夜に起こしたせいだ。それとも、薬の投与量が足りなかったかな」
「薬?」
「ダイニアリピブラゾールだ」
彼が白衣の懐から、パッキンされた錠剤を取り出した。
「我が社の鬱病治療薬じゃないか」
「実験動物に飲ませるのはどこの会社もやってることだ。マウスですら鬱になるんだからな。そうだ。もし、さっきので不安を感じたんだったら、一錠飲んでおけよ。きっと君にもよく効くさ」
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