皇帝陛下と超巨大熊
剣を抜くと、熊の首から真っ赤な血が噴き出した。
湯気をもうもうとたてながら、滝のように十数メートル下の雪原に流れ落ちる。
勝った。
そう思った瞬間、熊の右フックがぼくたちの左脇腹を直撃した。
強靭な鉤爪の一撃は、装甲を粉々に砕き、肋骨をへし折り、肉を抉り取りながら、ぼくたちを吹っ飛ばした。
ゆうに三十メートルは宙を舞い、大地に叩きつけられる。
コクピットが吸収しきれなかった衝撃で、リガの肉体の左手が操縦桿を離れ、ぼくたちはまた二つの存在に戻った。
熊が、掌で大量の雪をかきあげ、傷口に押し当てた。
血も凍らんばかりの咆哮を天に放つ。
ぼくの装甲がビリビリと震えた。
音だけではない。
強烈な感情が念波として放たれている。
これはーー〝言語〟だ。
この世界の人間たちの言葉でも、日本語でも英語でもないが、動物の唸りなどでは決してない。
熊の言葉は、どこか人間の気配を感じさせた。人類と異なる生物がゼロから生み出したというより、出発点は人の言語だったのではないか、そんな気がした。
なぜなら、なんとなく意味がわかったからだ。
熊は、ぼくへの復讐を誓っている。お前は殺す。頭を噛み砕き、内臓をすする。そんなことをいっている。
熊が掌を首から外した。
出血が止まっている。
真っ赤な氷が首筋に張り付いていた。
いまの気温はマイナス三十度ほど。どうやら傷口を氷結させて血止めしたらしい。
応援の五機はもう間近まで迫っている。
無線から「隊長!」と叫ぶ声が聞こえた。例のギレアドのゴージャスな恋人の声だ。
熊は最後にもう一度吠えると、恐るべき脚力で雪を蹴立て、信じがたい速さで走り去った。
二十メートル以上ある巨体が、あっという間に地平の彼方へ消えていく。
ぼくとリガはそろって息を吐いた。
ギレアドの機体がふらつきながら近づいてくる。
モニターにギレアドの顔が現れた。
映像の質は悪い。
ぼくと熊の戦いで大量の雪が舞い上がったからだ。
この世界の無線技術は拙く、わずかな障害物でまともに機能しなくなる。
「とんでもない化け物だったな」と、ギレアド。
「熊は、前々から討伐されているのではないのですか?」
「ああ、だが、あれほど大きく、強い個体は初めてだよ。ふいをつかれたとはいえ、俺がやられるとは。たまらないね。ああいうやつと出会えるから、騎士はやめられない」
熊の姿は、巨人の視力でも捉えられるかどうか、というくらいにまで小さくなり、雪の中に溶け込んでいく。
リガがつぶやいた。
「あの熊、最後にしゃべりましたよね。たぶんですけれど」
「俺にも聞こえたよ」ギレアドがなんともいえない顔をした。「熊が断末魔に念波を出すのは知られているが、まさか話すなんてな。まるで三代皇帝の御伽噺だ」
「御伽噺?」
「帝都の人間なら誰でも知ってる話さ。代々の皇帝は、常に熊との逸話を持っている。どうしたわけか、皇帝は熊を引き寄せるんだよ。皇帝の輝ける意思に、熊が惹きつけられるとかなんとか。
なかでも有名なのが三代目だ。
あるとき、三代目が皇帝機を駆って敵地で大勝利をおさめ、帝都への帰路についたところ、前に進めなくなった。見えない壁のようなものがあったんだ。
そして声がした。皇帝の心にだけ聞こえる念話だ。声は〝お前の意思はお前のものではない〟と告げた。皇帝がどういう意味かと問い返すと、〝お前は操っているつもりだろうが、お前こそが操られている〟と答えた。
皇帝が、お前はなにものか?と問うと、いきなり目の前に熊が現れた。まさに山のような大きさの熊だ。熊は呆然とする皇帝に〝気をつけるのだ〟と言い残すと、いきなり消えた。
帝都に戻り、皇帝は熊の言葉の意味を考えた。
そして、腐敗しきっていた元老院議員たちを一掃し、真なる帝政が始まった。
これが、有名な『熊の託宣』だよ」
皇帝の輝ける意志が熊を惹きつける、だって?
ぼくは巨人脳をフルに活用できる存在だ。思考の大きさ、深さは人間をはるかに超えている。
さきほどの熊は、ぼくを探知してやってきたとか?
ギレアドがいう。
「もちろん、山のような大きさの熊なんてのはありえないし、話す熊なんてのはもっとありえない。だからこそ御伽噺なんだがーー」
言葉が尻すぼみになったが、いいたいことはわかる。
さっきの熊を見る限り、あながち、『熊の託宣』には、ある程度の真実が潜んでいる気がしてくる。
リガが額を押さえながらいった。
「熊は、いったいなんなのですか? あんな動物が自然に生まれるものなのですか?」
ギレアドが肩をすくめた。
「あいつらは、もともと人だったのさ」