さよならぼくのナイチンゲール
翌朝、ぼくに乗り込んだドストエフが顔をしかめた。
いつものように、ぼくを立ち上がらせ、アリシャが用意していた鞘入りの鉄剣を手にするまでは同じだったのだが、剣を腰に帯びたところで動きを止めた。
ぼくは彼の意思に従って両の拳を握ると、宙にパンチを繰り出した。
ごう!とハンガー内に音が響く。
ドストエフがコクピット内で己の手を伸ばし、体外スピーカーのスイッチを入れた。
「アリシャ、調整がなってないぞ!」
彼女が足元で、申し訳なさそうに頭を下げる。
「す、すみません。いつも通りにしたはずなんですが」
ドストエフはぼくの両の手を広げると、ピアノでも弾くように十本の指を滑らかに動かした。
いや、一本、動きが遅れている指がある。
ぼくが昨晩、わずかながら操作権を発揮できた右の小指だ。
外から見ている分にはわからないだろう。
ぼくとドストエフだけが違和感を感じている。
ドストエフはぼくに片膝をつかせると、コクピットから外に出た。
ぼくは視界の端にアリシャを捉えていた。
整備用プールの横で青ざめている。
ドストエフが彼女の前に立った。
ぼくから見れば二人とも子供も同然だが、ドストエフは身長二メートル近くで、アリシャは百六十センチほどか。まさに大人と子供だ。
ハンガーの中は静まりかえっていた。
さきほどまで、ぼくのほかに二機の巨人が定期巡回に向けて騒々しく出撃準備にかかっていたのだが、その二機の整備士は手を止めてこちらを見ている。
ドストエフが、毛皮の防寒着の懐から櫛を取り出し、灰色の長髪をなでつけた。
「アリシャ、ここに来て何年になる?」
アリシャの喉が唾を飲むのが見えた。
「その、三年と二ヶ月です」
「そうだ」ドストエフがうなずく。「たしか、その前は〝祝福の門〟にいたんだったな。門に投棄される有機物の分別係だった。
お前は俺が倒した巨人の使用不能になった部位を繋ぎ合わせることで、新しい巨人を生み出そうとしていた。もちろん、ただの奉仕階級のガキにそんなことができるはずもないが、たまたま通りかかった俺が興味を引かれるくらいのものではあった。
俺はお前を前任だった、スゥェトじいさんに預けた。で、じいさんが辞めてからの二年半、お前はただの一度もミスをしなかった。
ただの一度もだ。
お前は常に完璧だったよ。
今日までは」
アリシャが震え始めた。
ドストエフがいった。
「クビだ。出て行け」
「そんな!待ってください!わたしが職を失ったら、わたしと妹はどうやって生きて行けばいいんですか!?」
ドストエフが肩をすくめる。
「スェトじいさんは俺の前任の代から数えて四十年間ミスがなかったと聞いたことがある。なぜかわかるか? お前たち整備士が失敗すれば、俺たち操縦士は死ぬ。そして、巨人は打ち倒され、都市は敵に破壊される。敵は市民を一人残らず食肉として回収するだろう。
お前はただの小さな過ちと考えているようだが、お前が危機に晒したのはこの都市の全住民だ。
生きるために戦っているんだ。
俺はもちろん、この都市が抱えるすべての人間がな。
お前はみなの命を危険にさらした。
クビだ」
アリシャはうなだれてハンガーからとぼとぼと出て行った。
ドストエフが手を叩く。
「さあ!みんな!仕事を再開しろ!こうしている間にも敵が迫っているかもしれんぞ!」
ハンガー内の作業員たちが一斉に「おう!」と声を上げた。
ぼくは陰鬱な気分だった。
ドストエフの言葉は正論だ。
だが、ハンガー全体を見ていればわかる。アリシャは間違いなく、ここでいちばんのメカニックだった。
それに小指の反応が遅れるといっても、知覚できるかできないか、ぎりぎりのところだ。戦闘に支障が出るとは思えない。
ドストエフは、ぼくの視線を感じ取ったのだろうか。
ぼくの装甲を手で叩いた。
「心配するな。お前にはちゃんと新しい整備士を用意してある。とびきりの奴をな」
完結はやすぎ!しっかり書いて!とご指摘をいただいたので、もう少しがんばります。