不死の癌細胞
ぼくはまたしても不整脈を起こし、格納庫ではまた警告音が鳴った。
ヤズデギルドはニコニコと微笑みながら、リガに向かって粘土板を掲げている。
リガも笑みを作った。
「ええと、殿下、わたしは文字が読めないのですが」
「だろうな。わかっててしたことだ。まあ、大した意味はない。さあ、粘土板など放っておいて、さっさと寝ろ。明日からは一日中わたしについて歩くことになるのだ。なかなかに大変だぞ」
ヤズデギルドはあくびをしながら、自室へと消えた。
リガが椅子に沈み込んだ。
〝終わったかと思いました〟
〝ぼくもだよ〟
〝それで、彼女はなんと書いたんですか?〟
〝たいしたことじゃないさ。君が文字を読めるかどうかを確認したんだろう〟
危なかった。
もし、リガが文字を読めて、あの言葉に反応していたら、その場で処刑されてもおかしくなかった。
リガへの待遇がよかったので、勘違いすることろだった。
ヤズデギルドは油断していない。
リガをある程度信じつつも、心の底には警戒心を秘めている。
窓がカタカタ鳴った。
外に見えるのは、相変わらず雪の張り付いた山肌だけだ。そして、相変わらずの薄暮。窓から入る光は、弱々しいまま、強くも弱くもならない。
ぼくはいった。
〝そろそろ寝たほうがいい〟
リガがうなずき、自室に向かった。
階段を降りた先にある部屋は、四畳ほどの大きさだった。鉄パイプで作られたベッド、粘土板が詰まった戸棚。天井には暖房用のパイプがうねっている。灯りは、小さな丸窓がひとつ。
なんとも無骨な部屋だ。
上のヤズデギルドの部屋も同じなのだろうか。
リガは帝国の文様が入った白いコートを丁寧に畳んで枕元に置くと、服のまま毛布のなかに潜り込んだ。
〝おやすみなさい、ヴァミシュラー〟
〝おやすみ、リガ〟
と、互いにいったものの、気が昂り過ぎたのか、結局、ぼくたちが眠りにつけたのは、それから一時間近くたってからだった。
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夢の中、ぼくは真っ白なラボにいた。
ケムサーフ天板が貼られた実験机が何十台も並び、白衣を着た技術者たちが、ビーカーに試薬を入れ、モルモットに開発中の薬を注射し、印刷された遺伝子検査の結果を読み解いている。
同期入社の乃木沢圭吾が、ペトリ皿を持ち上げ、ぼくに近づけた。
「見ろよ。こいつが、〝ヒーラ2〟だ」
乃木沢は見た目に気を使わない男だ。
高身長で顔もいいのに、服装に無頓着で、髭も生え放題だ。
ラボの外では声のハリもなく、ぼそぼそと喋る。
だが、ぼくたち同期は彼に一目置いている。
彼は科学の神なのだ。ひとたびラボに入れば、気合をみなぎらせた新進気鋭の研究者に早変わりする。自信に満ち溢れ、堂々たる帝王として君臨する。
彼が差し出した皿の中には、ピンク色の肉塊があった。
ぼくはスマホで写真を撮った。
今月の社内報に載せるためだ。
乃木沢がいう。
「まず、ヒーラは知ってるな?」
「ええと、不死の癌細胞、だっけ?」
「そうだ。1951年に子宮頸癌で亡くなったアメリカ人女性の癌組織から分離されたものだ。遺伝子異常により不死性と高増殖性を獲得しており、人間の細胞を使う実験を行うときは、世界中のラボで、この細胞が使われる」
乃木沢が皿をゆすった。
肉がぷるんと震える。
「で、こいつが、我が社が作り出したヒーラを超える超細胞だ。俺が発見した特殊な細胞に、ヒーラの遺伝子を組み込んで完成した」
「超えるって、どんなふうにだい?」と、ぼく。
「こいつは、増殖性、不死性に加え、固定性があるんだ。つまり、変異が起こらない。ヒーラ細胞は培養を繰り返すなかで、遺伝子の転写エラーを無数に起こしてきたが、こいつは違う。たとえ百万倍に培養しても、もとの形質を保つだろう」
「それは、すごいこと、なのか?」
「バカ。これだから文系出身は。いいか? ヒーラ細胞の場合、開発した薬の薬効が確認できても、薬のおかげなのか、ヒーラの遺伝子が変わったせいなのかを、常に確認しないといけない。手間だろう? ヒーラ2にはそれがない。
実験素材として優秀なだけじゃないぞ。こいつの特性は、画期的な認知症治療薬につながる可能性もある」
「乃木沢、そんな凄いモノを作り出しただなんて。君はぼくたち同期の誇りだな」
乃木沢が片方の眉を上げた。
「ヒーラ2はお前も開発に貢献してるんだぜ?」
「ぼくが? ただの社内報担当なのに?」
乃木沢がぼくの背中を叩いた。
「お前は自分を過小評価しすぎなんだよ。そもそも、俺は、お前ほどタフなやつは見たことがないぜ? 肉体もそうだが、なにより精神だ。社内報は会長直轄だろ? とんでもない無茶ばかりさせられるって有名だぜ? 半年以上持ったのはお前が初めてだって」
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たしかに、ぼくはストレスへの耐性が人より強い。
ぼくはまどろみのなかで思った。
じっさい巨人なんてものになったのに、精神に異常を来さず、どうにかやっている。
激しいノックの音が鳴り響いた。
ぼくの意識は急激に覚醒した。
扉が執拗に叩かれている。
いや、これはぼくではなく、リガの耳が聞いている音か。
彼女がベッドの上で身を起こす。
ぼんやりした焦点が、鉄の壁に合わさる。
お尻の下からは、かすかな振動が伝わってくる。
〝母艦〟は相変わらず爆進中らしい。
またノックの音。
続いて、ヤズデギルドの声がいった。
「リガ、いつまで寝ている? さっさと起きろ!」