異世界アイガー北壁
大雪原を抜けると、急峻な山々が現れた。
といっても、高さは分からない。
百メートルほどから上は、分厚い雲の中に隠れているからだ。
轍のあとは山々の合間に消えている。
そして、ぼくの耳は、彼方から響いて来る金属音を捉えていた。引き裂けるような甲高い音だ。
何が起こっているのか。
天からは牡丹雪がスローモーションのような速度で絶え間なく降り続いている。
リガがぼくの操縦桿を握り直した。
「あの帝国軍でしょうか」
彼女の頬は健康的に上気していた。
肌が白いだけに、赤みがよくわかる。
「おそらくそうだろうね」と、ぼく。
リガがぐっと顎を引く。
仇を目前にし、彼女の心が燃えたつのを感じた。
操縦桿を握る手が震えている。
武者震いだ。
リガがいった。
「ヴァミシュラーさん。お願いがあるんです」
「なんだい?」
しばしの沈黙の後、彼女が続けると。
「あなたの命をわたしにくれませんか?」
彼女の感情が強すぎるせいか、片手で操縦桿を握っているのに、彼女の思考が伝わってくる。
彼女は真正面から敵に突っ込んでいくつもりらしい。
ぼくは巨人の頭部をうなずかせた。
「ぼくの命を君にあげよう」
リガが涙を拭う。
「ありがとうございます。どんな形でもいいので、なにか、あなたにお礼をできたらいいのですが」
男性なら一度は聞いてみたいセリフだが、彼女は年下すぎるし、体格も小さすぎる。体重は三十五キロくらいか? ぼくの何千分の一だろう。だいいち、もし、適切な年齢、適切な体型だったとしても、家族にはそんな気になれない。
「お礼なんていらないから、あっちへ行こうか」
ぼくは轍が向かう先とは九十度違う方角を指さした。
「え?」と、リガがつぶやく。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
別に逃げようとしたわけではない。
無意味に死ぬような真似はしたくないだけだ。
アリシャの敵討ちはぼくも望むところだが、ただの女の子であるリガの作戦は、蛮勇が過ぎる。
敵の母艦には、まだ十、いや二十近い巨人が残っているはずだ。そのなかには、ドストエフを瞬殺したヤズデギルドの紅い機体もある。
正面衝突すれば殺される可能性が高い。
仇をとりつつ、リガの命も守る。
そのために重要なのは、敵について探ることだ。
まっすぐに敵を追わず、迂回して側面から観察する。
ぼくの巨人脳はぼくが意識さえすれば、じつに論理的に働いてくれる。
脳の回答に従った結果、ぼくは信じがたい高さの絶壁に取り付いていた。濃密な雲の中なので、どれくらい登ったのか、正確なところは分からないが、おそらく二千メートル近くまで来ている。アイガーも真っ青の大岩壁だ。
巨人の超絶的な握力で岩肌を掴み、わずかな凹凸に足をかけ、じりじりと登っていく。
人間だったころのぼくの能力ではとうてい不可能な芸当だが、巨人脳による運動神経の向上が、プロクライマー並みの登攀技術をぼくに与えていた。
とはいえ、ぼくの自重はとんでもないし、山肌は凍りついている。
油断すれば命はない。
迂回は論理的には正しかったはずだ。
まさか、平地からいきなりこれほどの高山が聳えているとは。
地球ではありえない地形だが、もし、雪がなく、ふもとの大雪原が一面の緑に覆われ、そこに湖でもあったなら、湖面に山々が映えて、さぞかし美しかったろう。
このダイソン球世界をデザインした人間のセンスは悪くない。
気温の設定さえ正しければ、極楽のような世界だったのかもしれない。
風が唸りをあげてぼくの耳元を吹き抜けるたびに、リガが小さく悲鳴をあげた。
彼女は平地の人間だ。
これほどの高さは生まれて初めてだろう。
しかも、いきなりのロッククライミングだ。
揺れた拍子に、彼女の空いている左手が操縦桿を掴みそうになり、ぼくは冷や汗をかいた。
「絶対に、操縦桿を両手で掴まないでくれよ」
ここで一体化すれば、彼女の恐怖がぼくの動作にダイレクトに反映される。間違いなく下まで真っ逆さまだ。
リガが「は、はい!」といって、左手を自分の尻で押さえつけた。
ぼくの右手が掴んでいた岩が崩れ落ちた。
自動車ほどもある塊が、ものすごい勢いで落ちていき、雲の中に消えた。
すこし、間を置いてドゴーンと砕ける音が聞こえて来る。
リガが、きゃあ、と身を縮めた。
精神逆流防止装置のコードで右手を操縦桿にしばりつけていなかったら、彼女が両手を体の前に寄せて、これまた一巻の終わりだったろう。
「で、でも。ヴァ、ヴァミシュラーさん。ほんとうにこんなことをする必要があったんですか!?」と、リガ。
ぼくは、次の凹凸を掴むと、自分の体をオーバーハングの上に引き上げた。
元の自分の体では、懸垂一回もできなかったのに。この巨人の体は本当にすごい。とはいえ、さすがにクライミングで疲弊したのか、これまで感じたことのない倦怠感のようなものが、ぼくを包んでいた。
ぼくはあたりを見回した。
どうやら、ここが稜線らしい。
「リガ、結果はもう少しでわかるよ」
山の反対側は比較的なだらかだった。
しばらく下っていくと、大きな崖が現れた。
崖の下から、断続的に大質量の物体が動き回る重低音が響いている。
ぼくは崖の淵から、そっと目を出した。
下方の雲の隙間に、〝戦場〟が見えた。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
帝国軍の巨大な〝母艦〟が谷間の平地で止まっている。
こうして直接目で見ていても信じられないほどの大きさだ。
以前、横須賀で見た米軍のニミッツ級空母の二倍、いや、三倍はある。
形状はキャタピラを履いた弁当箱といったところか。
あちこちから、排気口のような煙突を突き出し、もくもくと蒸気を吐き出している。
その周囲を、十機の白い帝国巨人が取り囲んでいた。
さらに外側を、三機の黒い巨人と、五十人ほどの人間の兵士が囲んでいる。人間の兵士はみな薄汚れ、野人のような雰囲気があった。
黒い巨人が一機、胴体を両断されて転がっている。
二つの集団は、いままさに戦闘の最中だ。
【読者のみなさまへのお願い】
「面白い」と思った方は、
広告の下にある☆☆☆☆☆からの評価や、ブクマへの登録を、ぜひお願いいたします。
正直、この作品はSFアクションというマイナージャンルなうえに、非テンプレ展開ですため、書籍化はまず難しいかと思います。
毎日ちょっとだけ増える評価やブクマが執筆の励みですため、何卒よろしくお願いいたします。