血液アンパンマン
痛い。
ぼくは小学生のころ、美術の時間に彫刻刀で指を切った時のことを思い出した。
たしか、近所の風景を版画にするというテーマだった。ぼくが杉の板に描いたのは、通学路にある川だった。水面の漣を細かに表現しようとするあまり、杉の板相手に力を込めすぎた。手が滑り、刃が指を掠め、血があふれた。
いま、ぼくの巨人の指は、氷の刃で傷付けられ、大雨の日の雨樋のように血を流していた。どくどく溢れ出し、足元の雪原を赤く染める。巨人の体温は人間よりずっと高いので、湯気が立ち上っている。
ぼくの質量は人間とは比較にならないほど大きいので、この程度はかすり傷でしかないが、痛みはある。
ぼくは顔をしかめようとして、うまくいかないことに気づいた。
兜の下、顔の装甲が邪魔して表情を作れない。
ぼくのように自由意志を持たない限り、巨人が顔筋を動かすことはないから、設計上、表情を作れるようにできていないのだ。
ぼくのなかで、リガが弱々しい声でいう。
「なにをしているんですか?」
「器を持って。雪を溶かすのにつかっていたやつ」
リガは雪を溶かして飲み水にするために、コクピット内のパーツを利用していた。精神逆流防止装置の蓋だ。
「は、はい」
彼女が器を握りしめる。
「それじゃあ、外に出て」
ぼくは雪原に腰を落とすと、二つの掌を階段状になるように胸元にくっつけた。
アリシャがハッチを開き、よろよろと顔を出した。
「器は投げ落として」ぼくはいった。
彼女が機体の外に出ても、思念はちゃんと届いている。ぼくたちの間のテレパシーはかなり強力なようだ。
彼女が言う通りに、器を投げた。
さくっと、血溜まりのそばの雪にめり込む。
「それじゃあ、降りて」と、ぼく。
彼女はぼくの手のひらと、装甲に溶接された梯子様のでっぱりを使ってどうにか雪原に降り立った。
ぼくはいった。
「じゃ、飲んで」
「なにをですか?」
「器の横にあるやつだよ」
彼女がじっと血溜まりを見た。
直径五十センチ、深さは三十センチほどか。
ぼくは彼女の嗅覚を通して鉄臭い匂いを感じた。
彼女がいう。
「できません」
「どうして? 都市じゃあ、巨人の肉を食べてたじゃないか。血は最高の食料だよ。あたたかな水分、ミネラル、鉄分、塩分、ビタミン、君に必要なものがすべて詰まってる」
「栄養があるのはわかりますが、できません。だって、ヴァミシュラーさんはほかの巨人とは違いますから。ヴァミシュラーさんはわたしたち人間と同じように考え、喜び、悲しんでいるから。わたしはヴァミシュラーさんとつながって、ヴァミシュラーさんが、かつて人間だったことを知っています」
「でも、君たちの都市の人たちは、人間の肉も回収してたじゃないか」
リガが首を横に振った。
「お姉ちゃんは、巨人の肉は食べても、人間の肉は絶対に食べちゃダメっていってたんです。わたしたちの本当の父母たちがそうしていたからって。ましてや、ヴァミシュラーさんは心が通じた相手ですよ? わたしにとっては、その、もう家族みたいなものなんです。家族を食べるなんて。絶対にできません」
ぼくが自由に動けたら、手で胸元を押さえていただろう。
ぼくがそうであるように、リガもぼくを家族と感じてくれている。
元の世界と隔絶した冷凍世界で、ぼくはかつてないほどにあたたかな何かを感じていた。
「飲むんだ。ぼくは君の親でも兄弟でもないけど、もし、ぼくが君の本当の親なら、自分の娘を助けるためなら何でもするよ。血を飲ませることで助けられるなら、なにがなんでも飲んでもらう。家族っていうのは、そういうものだよ」
「でも」
力ない太陽の光が、雲を通して彼女を照らしている。白に近い金色の髪が輝き、妖精のような儚さを感じさせていた。
彼女は何も言わず立ち尽くしている。
風に吹くたびに、分厚いコートに包まれた細い体が揺れていた。
いまにもパタリと倒れてしまいそうだ。
ぼくはいった。
「飲まないと、君はお姉さんの仇に辿り着くことはできない」
彼女は、ふりあおいでぼくの目を見た。
怒っているような、悲しんでいるような表情だった。
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巨人の血で、リガは危機を脱した。
一日経つごとに回復し、三日後にはーー起きて寝てを三回繰り返すころにはーーすっかり元通りに。五日後には、むしろ都市にいたときよりも血色がよくなったようにさえ感じられた。
この世界は、地球の極地なみの寒さに覆われている。これまで、ぼくは植物を目にしていない。となると、この世界の住人は、ビタミン摂取を人工食料や生の巨人肉に頼るしかない。以前のアリシャの口ぶりでは、姉妹は巨人肉をめったに口にしていないという話だった。
この劇的な回復ぶりからして、リガの病とは脚気だったのかもしれない。
ともかくも、都市を出てから十三日後、ぼくたちは帝国軍の〝母艦〟に追いついた。