飢餓平原とテレパシー
「ヴァミシュラーさんは、過去からきたんですか?」
リガが生身の肉体でいった。
彼女はコクピットの座席の中で猫のように丸くなっている。コートを着ているとはいえ、ぼくがぎりぎりまでコクピットに送る熱量を絞っているので寒いのだ。
彼女の健康を考えれば、もう少しあたためてやりたいが、敵の母艦までの距離がわからない以上、節約する以外の選択肢はない。
都市を出てまる二日、ぼくは果てしなく続く雪原を、いまだ歩き続けていた。
巨人のぼくの視力を以てしても、この大雪原は先が見えなかった。
どこまでも果てしなく、真っ平らな雪の平野が続いている。ちょっとした丘や谷すらない。多少なりとも目印になるものといえば、足元に伸びているキャタピラの轍だけだ。
空はのっぺりとした灰色の雲に覆われ、太陽の姿も見えない。
ごくごく小さな音が聞こえた。後ろだ。
振り向くと、遠くの空が渦を巻いており、雷がチカチカ光っていた。あそこが、ぼくたちが出発した都市だ。反応炉のエネルギー放出によって生じた大気の乱れは、まだおさまっていないらしい。
ぼくは前方に向き直ると、右足を前に出した。
ずしん、と音が響く。続いて左足。また、ずしん。
轍を見つめ、ただひたすらに足を動かす。
足を下ろすたびに、膨大な雪の粉が舞い上がる。
リガがコクピットのなかでいった。
「ヴァミシュラーさんは、過去から来たのですか?」
彼女は操縦桿を片方だけ握っている。
二人でいろいろと試した結果、これがいちばん都合のいい操縦法だとわかったのだ。
両手で握ると、精神の一体化が起こる。互いの心が溶け合い、ぼくたちは二人で一個の存在となる。肉体の反応はバツグンだが、その分、疲弊も激しい。
はじめての一体化を解いた直後、リガはただの一言も発することなく、人形のようにコクピットで揺られるだけだった。姉のアリシャの死や、都市の崩壊がショックだったこともあるだろうが、それ以上にぼくの操縦で精神がすりへってしまったのだ。
ぼくの方は、人間の脳が、巨人の脳の情報処理に触れるのは、たいへんな負担らしい。
何時間かして、ようやく彼女の目から涙が溢れた。
あとからあとから涙が溢れてくる。
彼女は眠りに落ちるまで泣き続けた。
彼女が眠り、片手で握っていた操縦桿を離したとたん、ぼくは自分の体を動かせなくなった。
彼女が起きるまで、ぼくは雪原に突っ立っているしかなかった。
そして、起きながらにして夢を見た。
夢のなか、死んだはずのアリシャがぼくの頭をなでた。
ぼくは小さな手で彼女の腰に抱きついていた。
アリシャがゴミ山の上を逃げる。
ぼく、いや、視点の持ち主は笑いながら追いかける。
帝国の襲撃で破壊されたはずの都市がよく見える。
とんがった尖塔に、密集した集合住宅、都市全体をあたためているスチームの蒸気がそこここから立ち上っている。
風が吹き、視点の主が咳をすると、アリシャが自分の着ていたコートを脱いでかけてくれた。
アリシャの口が動いた。
だが、言葉を聞き取る前に、彼女の姿はぼやけ、世界は暗転した。
視点の主は、暗いコクピットのなかで、大雪原を映し出すモニターを見つめていた。
どくどくという鼓動の音が小さく響いている。
こっちが夢だったらよかったのに。彼女は、頭の中で考えを言葉にした。言葉は、ぼくにも伝わっている。
〝つながってる〟ぼくは思考でつぶやき、
「つながってる」彼女は口を動かしてつぶやいた。
操縦桿を握っていないのに、ぼくたちの感覚と思考の一部が共有されていた。
精神逆流防止装置を破壊した副作用なのか。
激しい困惑の感情が伝わってきた。
ぼくもびびっている。
たしかに、彼女とは心をひとつにした仲だが、すべての考えを読まれることには、若干の抵抗がある。
しかし、さきほどから、伝わってくるのは、もやもやした感情だけだ。どうやら、頭の中で、読み上げるように言葉を思い浮かべねば、思考が正確に伝わることはないらしい。
〝だいじょうぶみたいだよ〟ぼくは頭の中でつぶやいた。
彼女がコクピットで頷く。
〝そうみたいですね〟
これが、ぼくたちのはじめての言語的コミュニケーションだった。
彼女が、ぼくという不可思議な存在に、たまげることはなかった。
前日、一体化していたからだ。あのとき、彼女は、ぼくの人生の一端を味わった。ぼくが人間だったことや、こことは別の世界に住んでいたことなどは、すでに受け入れている。
あれから丸一日がたったいま、彼女はグルグルと鳴る腹を、恥ずかしそうに押さえながら、ぼくのなかで丸くなっている。
片手は操縦桿だ。ぼくたちは弱いながらもテレパシーを身につけたので、〝手放し運転〟もできるかと期待したのだが、さすがに無理だった。
ぼくは歩を進めながら、リガの問いに答えた。
「ぼくの世界が、過去かって? うん、たぶん、ものすごい昔だよ」
「どれくらいの昔なんですか?」
「見当もつかないよ。ぼくのいた時代から、何万年経てば、こんなすごい世界を作れるのかなあ」
一万年? 二万年? それとも百万年だろうか。
なんとなく、五万年以内なのではないか、という気がした。それ以上の年月が経てば、人類に外見上の進化が起こるはずだが、リガたちの姿は、人間だったころのぼくと大差ない。
ぼくたちは何もすることがないので、ひたすら話し続けた。
数時間に一度、リガを外に出し、お花摘みと飲料水としての雪を回収してもらう。
そして、また歩く。
この世界は昼夜がなく、時刻を告げていたホーンも、もうないので正確な時間はわからない。それでも、リガの睡眠で日数は測れる。
出発してから五日が経った朝、リガは飢えから気を失った。
たちまち、ぼくは身体を動かせなくなった。