蛇と〝超流動〟
ぼくが一歩踏み出すごとに雪原が揺れた。
ぼくの体重は十数トン、いや、ひょっとしたら数十トンかもしれない。
それほどの質量の物体が全力疾走するのだ。
降り積もった雪が舞い上がり、ぼくが巻き起こす風にもみくちゃにされる。
ぼくの超視力は、雪とともにぬいぐるみのようなものが飛んでいるのを捉えた。
間違いない。女の子の形をした小さなぬいぐるみだ。人造繊維でできた赤色の髪に銀色のリボンをつけている。
きっと、都市の子供の持ち物だったのだろう。
反応炉が引き起こした大爆発でここまで飛ばされたのだ。
ぼくは反射的に手を伸ばしたが、ぼくの巨大な手に対して、ぬいぐるみは小指の爪の先ほどの大きさもない。ぼくの手の動きで生じた気流に乗って、中指と薬指の間をすり抜け、後方に飛んでいった。
いまや、空から落ちてきた雲が都市全体を飲み込まんとしていた。
吹雪に遮られてはっきりとは見えないのだが、雲は円錐をひっくり返したような形をしていた。とんがった部分の先端が都市に触れ、そのままじりじりと下方に落ち続ける。先端がつぶれ、横に広がっていく。
都市の黒い城壁がみるまに白く変わっていく。
すさまじい速度で凍りついているのだ。
白い絨毯のようなものが、都市を中心に円形に広がっている。いや、絨毯というよりはドームだ。凝固しつつある空気中の酸素や窒素が、ぼんやりとした〝膜〟を作り、外側に向かってふくらんでいるのだ。
あれは、やばい。
直感が、そう告げている。
生命体はマイナス何度まで生きられるのだろうか。
おそらく、人間がマイナス百度の大気で呼吸すると、ただちに肺から大量出血して死ぬだろう。
あのドーム内の気温は、酸素が液体化していることから見て、マイナス200度以下は確実だ。
ぼくは巨人だし、人間よりはるかに頑丈かつ寒さにも強い。
それでも、マイナス200度の環境に長時間耐えられるとは思えない。さきほど、一瞬だけ、超低温になりはじめた城内にいたが、ひさしぶりに〝寒さ〟を感じた。
逃げなければ。
できるだけ早く、できるだけ遠くに。
ぼくの斜め前方を、先に逃げ出した帝国の機体が走っている。
頭上で雷鳴が轟いた。
空全体が鳴動している。
ドプン、と、背後で奇妙な音がした。
肩越しに振り返ると、都市の城壁を大量の水が乗り越えるところだった。
まるで洪水だ。
どこにあれほどの水が、凍りつきもせずに存在したのか。
それに、もうひとつ奇妙なことがあった。大地はぼくのいる位置から都市に向かってゆっくり下がっているのに、水はその坂を這い上ってきているのだ。
しかも速い!
地形にあわせて形がかわるせいで把握しづらいが、ぼくよりスピードに乗っている。
水はヒトデの触手のように伸びだし、ぼくの斜め前方を走っていた帝国巨人を包み込んだ。
一瞬の間に、帝国巨人は白く染まり、固まり、地面に叩きつけられて粉々になる。
水はそのままの勢いで二手に別れ、片方が地形に沿ってぼくに向かってきた。信じがたい速度だ。滝を落ちる水ですらこれほどではない。
なんなの!?あれ!
リガの心が騒ぎ、答えをもとめてぼくの記憶を探った。
ぼく自身ですら忘れていた奥底から〝超流動〟という言葉が引き上げられた。
そう、超流動。大学の一般教養の授業で聞いた言葉だ。
極低温の世界で、物質が電流を通しやすくなることはよく知られている。〝超電導〟だ。電気抵抗がゼロになり、一度流した電流が減衰する事なく流れ続ける。
超流動は、同じように極低温下で、特定の液体の摩擦係数がほぼゼロになる現象だ。
ヘリウム4での実験が有名だが、この現象が発生すると、液体はただの液体でなくなる。摩擦がないので、テーブルでこぼした水は際限なく進み続けるし、床に落ちても前進し、壁に当たれば壁を登る。
たしか、この現象が起きる物質は二つ。ヘリウム4、ヘリウム3だ。あとは未確認だが、水素分子でも特定の条件下で発生しうる可能性があったはずだ。
いまの状況から見て、水素分子説はただしかったらしい。
超流動体と化した、水そっくりで水ではない何かが暴れ回っている。
死の洪水は断末魔の大蛇のようにのたくり、避けるまもなく襲ってきた。