皆殺し軍団せまる(ぼくしか気づかない)
リガがテントの中からいう。
「わたし、機嫌悪くなんかないよ」
「悪いわよ。わからないとでも思ってるの?」アリシャが片手で自分の肩を揉んだ。「この子の引き渡しが決まった時から、ずっとイライラしてる」
「気のせいだよ」
「気のせいじゃないって」
「うるさいな!わたしは機嫌悪くなんかないよ!」
アリシャがため息をついた。
吐いた呼気が凝結し、風に吹かれて散っていく。
彼女はぶるりと震えると、コートのフードをかぶった。
「それならそれでいいけど。わたし、ちょっと事務所に行ってくるから」
事務所、とはゴミ山を二つ超えたところにある廃材で作られた小さな小屋だ。ぼくは、ここに連れてこられた日に見たきりだが、たしか二階建てで、トイレ用のもっと小さい小屋が横にくっついていた。
アリシャたちは用を足すときはかならずここでする。
この都市では人のし尿は貴重な資源なのだ。男性作業員たちだって、立小便するようなことは絶対にない。
アリシャがゴミ山の向こうに消えると、リガがテントのなかから這い出してきた。ヒートテックのような薄手で身体に張り付いた防寒着のうえに、ゴツイ毛皮のコートを羽織っている。
雪が彼女に吹き付けた。
空の雲が分厚さを増している。
いつかの極低温のときにも似た、一面の黒雲だ。
あそこまで寒くならないといいのだが。
彼女は、へくちとくしゃみをすると、もう一度中に戻り、今度はもこもこに着込んで外に出てきた。
空の露天風呂のへりに腰掛け、手を伸ばしてぼくの指に触れる。
「さっきの、聞いてました?」と、彼女。「もちろん聞いてましたよね? そうなんです。おねえちゃんのいうとおり。わたし、いま、すごく機嫌が悪いんです」
そうなんだ。
彼女の人形のように整った顔には、怒りや苛立ちはほとんど現れていない。アリシャはよく見抜けるものだ。
リガがいう。
「でも、わたしがいらいらしてるのは、お姉ちゃんに対してじゃないんです。わたしなの。自分に対して怒ってるんです。
だって、お姉ちゃん、絶対に自分であなたを操縦したかったんです。それなのに、整備士に戻るって。あのとき、お姉ちゃん、一瞬だけどわたしを見たもの。きっとわたしのために決めたんだ」
それは、そうだろう。
横から見ているとよくわかるが、アリシャにとっていちばんたいせつなのはリガだ。
自分の身体や健康、夢などよりも、血のつながらない妹の幸せを上に置いている。
リガがうなだれた。
「また、お姉ちゃんの足をひっぱっちゃいました」
彼女は小さく咳き込んだ。
彼女はうつむいたまま、何も話さない。
泣いているのだろうか。
処理場は静まり返っている。
雪がふぶきはじめている。
処理場の向こう、都市の集合住宅のどこかで、プシューと蒸気が漏れる音がした。
ぼくの耳は都市の生活音を捉えていた。
皿か何かが割れる音。
喧嘩の怒鳴り声。
笑い声。
泣き声。
無数の人々の生み出す音が重なり合い、都市全体が呼吸しているように感じられた。
リガがつぶやいた。
「動かせたと思うんです」
なんの話だ?
「わたし、あなたの操縦桿に触れたときに感じたんです。きっと動かせるって。でも、動かせなかった。あんなに頑張っているお姉ちゃんが動かせないのに、一日中、何もせずにいて、お姉ちゃんの足を引っ張ってるだけのわたしが動かせるなんて、ダメだと思ったんです。
でも、動かしたほうがよかったんでしょうか」
もし、ぼくが話せるなら、本人に聞いてみるのがいいよ、とアドバイスしただろう。
ぼくはアリシャの現在地を確かめるために、意識を集中して聴力をできるだけ高めた。
最近気づいたのだが、五感の感度だけは多少の自由が利くのだ。
処理場の事務所があると思しきあたりで、ため息が聞こえた。
続いてアリシャの声がいう。
「——ったかなあ。あの子、勘がいいし。でも、あの子があたたかな部屋で過ごせるんだから——」
衣ずれの音が聞こえて、ぼくはあわてて聴覚が探る先をそらした。
アリシャはまだトイレにいたらしい。
ごめんごめん。
心の中でそうつぶやいたときだった。ぼくの耳は、腹に響くような地響きを捉えた。
聴きなれた音、巨人の歩行音だ。だが、遠い。都市のなかではなく、外のずっと遠くのほうから聞こえる。
一機、二機? 十機? 二十機? 大部隊がじわじわと都市に近づいているのだ。どれくらいるのか、強くなる吹雪の音に邪魔されて正確なところはわからないが、ものすごい数だ。
ぼくは、心のなかで「襲撃だ!」と叫んだが、もちろん誰にも届くはずはなく、指がぴくりと震えただけだった。
リガがその指をほっそりした手でなでる。
「巨人さん、そういわれても、お姉ちゃんとケンカするのは久しぶりなんです。すぐに素直になんてなれませんよ」
違う! ここに敵が迫ってるんだ。ドストエフたちになんとかできるような数じゃない! すぐに逃げないと!
どれだけ叫ぼうとも、声は出ない。
ぼくは地面に寝転んだまま無為に時を過ごすほかなかった。
じっさいは五分ほどだったのだろうが、無限にも感じる時間が流れ、それから都市の警報が狂ったようになり始めた。