千里眼の男
何も起きない。
もう一度、指を鳴らす音が聞こえた。
牢獄には何の変化もない。
リガはいった。
「何も起こりませんが」
「もうしばらく待ってくれないか?」
今度は拍手の音が聞こえてきた。
続いて、足を踏み鳴らす音。
さらに、鉄の扉を蹴り飛ばすような音が響く。
〝なんなのでしょうか、あの人〟と、リガ。
しばらくすると、遠くから「やかましいぞ!」と、怒鳴り声が聞こえ、二人分の足音が近づいてきた。
「いったいなんなんだ、お前! ぶっ殺されたいのか!」短気そうな男の声がいう。
「あなたは殿下のご厚意で処刑を猶予されている身です。その点を弁えていただけますかね」落ち着いた声が続く。
エプスがいう。
「わたしは、君たちを救ってあげたいんだよ」
「さきほどもそのようなことをおっしゃっていましたね。意味が分かりかねるのですが」と、落ち着いた声。
しかし、最後の「が」が、まだ牢獄内に反響しているうちに、足元がかすかに揺れた。
「なんだ?」と、男たち。
地響き。それにかすかな爆発音。
男たちが腰の剣を抜く。
エプスがいった。
「復讐者のお嬢さん、できるだけ扉から離れたほうがいい」
甲高い警報音が鳴り始めた。
大質量の金属同士が激突する音が聞こえる。
続いて、すさまじい轟音と共に、牢獄の廊下の天井が崩れ落ちた。
牢番二人が悲鳴をあげる。
リガが、とっさに身体を丸める。
瓦礫が落ちる音が収まったところで、彼女は顔をあげた。
外の光が、さきほどまで扉や壁があった場所から差し込んでいる。白い粉塵が霧のように舞い、きらきらと輝いていた。
そして、手だ。巨大な手が見える。
巨人の腕が上方から入り込んでいるのだ。
誰かが巨人の外部スピーカー越しにいった。
「エプスぅ、いるかぁーい?」
「いるよ。しかし、いま少し丁寧に頼む」
「ごめんよぉ。警護の巨人が意外と強かったからさぁ」
「ああ、皇族であるお前が、あれだけ苦戦したんだ。相当な腕利きだったんだろうな」
エプスが崩れた壁を回り込んできた。
粉塵をかぶっているせいで、赤い髪は真っ白だ。それでも、差し込む光に照らされた姿は、西洋絵画のような美しさを感じさせる。
「女性にひどいことをする。まあ、君の強さを考えれば最低限必要な処置か。ギレアドほどの剛の者を一方的に叩きのめせるんだからね」
エプスはそういうと、尖った瓦礫の欠片を掴み、リガを縛っていた紐を切った。
軽やかな動きで、天井に空いた穴を指し示す。
「では、行こうか」
リガはよろめきながら立ち上がった。
長時間縛られていたせいで、手足が痺れている。
彼女はどうにか一歩踏み出し、また止まった。
視線が、廊下の瓦礫に向いている。真っ赤な血が、牢番たちのいたあたりから滲み出しているのだ。
彼女が少しだけ迷ってからいった。
「一つだけよいですか?」
「なんなりと。だが、手短に頼む」と、エプス。
「さきほど、あの人たちを助けたいとおっしゃったのは、本心ですか?」
エプスが微笑んだ。
「もちろんだよ。一度目は、ね。残念ながら彼らは拒絶した。である以上、排除するしかない。わたしたちが脱出するとき、攻撃されるのは嫌だろう?」
二度目は、彼らを崩落地点へ引きつけるための嘘だったということか。
しかしーー。
リガがぼくが思い浮かべた疑問を口にする。
「どうして、この廊下部分の天井が崩れるとわかったのですか?」
エプスが指で自分の額を叩いた。
「わたしはすべてを見通せるのさ」
バカな。透視能力を持っているとでもいうのか。
崩落した穴から、また爆発音が聞こえてくる。
それに、巨人たちの剣撃の音と、人々の悲鳴。
外でなにか、たいへんなことが起きているのだ。
エプスが差し込まれた巨人の手に乗り、リガに手を差し伸べた。
「さあ、君が仲間の復讐を遂げるときが来たぞ」




