皇帝宮
ギレアドがリガの背後に回り、布地の位置を調整した。
首筋の紐を結び直しながらいう。
「枷がありませんね」
「さきほど外したんだ。宮廷にあがるのに付けたままでは不作法だからな」と、ヤズデギルド。
「なるほどなるほど」ギレアドがリガの両肩に後ろから手を乗せた。「よかったじゃないか、リガちゃん」
ギレアドの大きな指が、リガのほっそりした肩にずしりとのしかかった。
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リガ、ヤズデギルド、ヘブロン、ギレアド、それに護衛の歩兵数名は、バスほどの大きさのキャタピラ車で穴底に向かった。
キャタピラ車には屋根がない。窓もなく、代わりに無骨な鉄の手すりがついているだけだった。
時速三十キロほどの速さで、ゆっくりと渦巻き道を下っていく。
降るにつれて、壁面に張り付いた家々はますます大きく、豪華になっていく。母艦から出発して三十分も経つころには、数百メートルに渡って一つの屋敷が続くほどになっていた。
道に迫り出した柱や壁には、色とりどりのタイルで流麗な装飾が施されている。通りを歩く人々の衣服の布地は薄く、つややかだ。
凱旋式は延期になったはずなのに、沿道には依然として人が溢れかえっている。「ヤズデギルド殿下!」「万歳!」と歓声が飛ぶ。
人々の肌は上の方の人に比べると、ずいぶん黒い。日焼けしているのだ。髪は短く、髭も薄い気がする。
リガがぼくの代わりに、隣に座るヤズデギルドに訊いた。
「なぜ、太陽から遠い〝穴底〟に近い人たちのほうが、日焼けしているのですか?」
「あれは電球焼けだ。人工的に肌を焼いているんだ」
「なぜ、そんなことを?」
「電球焼けができるほど、生活に余裕があると示すためだ。髪や服も同様だな。熱がありあまっているから、保温に気をつかう必要はないというわけだ。じつに無意味な習慣だろう?
さて、そろそろ、上着を脱いでおけ。この辺りまで来ると、街路暖房の蒸気量が多いから、じきに暑くなってくるぞ」
街路暖房、通りに沿うように張り巡らされた細いパイプラインだろうか。北陸の温泉街で見られる湧水装置のように、一定間隔で湯を吹き出している。
湯気がリガの肌に張り付き、じわっと汗ばませる。
彼女はしずしずとファー付きの軍用コートを脱いで、膝に置いた。ヤズデギルドも同じようにコートを脱ぎ、朱色のパイロットスーツ姿になった。
リガがいう。
「殿下はどうして、操縦服のままなのですか?」
「わたしは、そういうヒラヒラした服は似合わないからな」
「そのようなことはないと思いますが」
「もう何年も男のような立居振る舞いを続けてきたんだ。いまさら女らしくなんてできないさ」
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さらにしばらく進むと、建物がなくなり、森が現れた。頭上を覆い尽くすように、うっそうと茂り、あたりは急に暗くなる。針葉樹の一種らしい。どの木も、幹回りが直径一メートルほどもある。高さは二十メートルほどか。葉の色は地球のそれに比べ、妙に薄くみえた。
リガは口をあけて木を見上げている。
ヤズデギルドが「生きている木を見るのは初めてか? これぞ帝国の偉大さの象徴だ。地表ではとうに絶滅した種だよ」と胸を張った。
森の地面には湯が流れていた。街の街路暖房の残り湯だろう。大量の水分のおかげか、地衣類がよく繁殖している。ネズミのような生き物が一匹、キャタピラ車に驚いて、すばやく木々の根元に隠れた。
森を抜けると壁が現れた。
石積みの城壁が行手を遮っているのだ。
高さはおよそ五十メートル、ゆったり弧を描いて左右に伸びている。
城壁の上では、複数の巨人が槍を手に闊歩していた。
壁に沿って進むと、巨大な門が出てきた。
母艦ごと通過できそうなサイズだ。足元の煉瓦の道に轍ができていることからして、普段はじっさいに母艦サイズのキャタピラ車が行き来しているのだろう。
リガたちの乗る小さなキャタピラ車は、脇にある通用門から中に入るらしい。鉄の格子扉を、控えていた巨人が押し開ける。
壁の向こうは、また街だった。
面白みのない直方体の建物が、きっちり等間隔に並んでいる。出入りしているのは、妙に畏まった雰囲気の男女だ。彼らは、ヤズデギルドの姿に気づくと、直立不動で敬礼した。
官僚か何かだろうか。
街の奥には、湖が広がっている。
面積はディズニーランド十個分といったところか。
穴底は、湖を中心に、官僚街、壁、森、貴族たちの屋敷と続いているようだ。
湖の岸辺には、ピラミッドのような反応炉建屋が四つ。
反応炉の莫大な排熱が、水を温めているのか、湖面の一部が沸き立ち、膨大な水蒸気を立ち上らせている。
道は岸辺を沿うように伸びていた。
道の終端は湖に浮かぶ城に続いている。
流麗な城だ。穴の外で見てきたような、実用一辺倒の城砦都市とはまるで違う。城壁はなく、真っ白な煉瓦を敷き詰めた広大な広場がよく見える。広場を取り囲むようにして、五階建てから六階建てくらいの建物群。建物の屋上やベランダは緑化が施され、信じがたいことに色とりどりの花々が咲き誇っていた。汲み上げられたであろう湯が、建物の雨樋から滝となってそこここに降り注いでいた。まるでバビロンの空中庭園だ。
ヤズデギルドが「皇帝宮だ」と、つぶやいた。