穴底へ
なんというウッカリさんだ。
リガが口元を押さえる。
ヤズデギルドの顔が一瞬強ばり、それから嬉しそうにリガの肩を叩いた。
「ほらみろ。〝お前の娘〟は、わたしたちが思っているより、ずっと賢いんだ」
奴隷が高度な算術を身につけていることをつっこまないのか?
ぼくが動ける肉体を持っていたなら、ずっこけてみせたろう。どうやら、ぼくたちはヤズデギルドの信用を完全に勝ち取っていたらしい。
ヘブロンは何かいいたげな顔をしたが、すぐに首を横に振った。
「我が娘になるということは、いずれは殿下の補佐になるということ。みっちりと仕込んでやるつもりだったが、すでに身につけておるとは。しかし、ギレアドのやつが、こんな複雑な算術まで教えたじゃとぉ?」
リガは、ぼくが咄嗟に考えたいいわけを、もそもそ答えた。
「その、わたしは数字を見れば、答えがだいたいわかってしまうんです」
「それは大変な才能だぞ」と、ヘブロン。
ヤズデギルドが話に割り込んでくる。
「リガは礼儀作法もしっかりしているんだ。食事を共にしてきたが、無作法は一度もなかった」
「ほう。作法も!」
ヘブロンが少しの間考えてからいった。
「リガ、お主も論功行賞に来るか?」
ヤズデギルドが腰を浮かせる。
「待て! さすがにそれは無理だ」
「いや、最低限の作法を身につけておるなら十分です。殿下のお着替えや湯浴みの際に警護するものが必要ですからな」
「なら、歩兵のなかから、誰か適当な女性を出せばよいではないか」
「残念ながら、確実に信頼できる女兵士はリガだけなのです」
「しかし、リガを連れていくには危険が大きい」
「殿下が考えるべきはご自身の安全であり、部下の安全ではありませぬ」
「……だな」ヤズデギルドがため息をついた。「リガ、一緒に〝穴底〟まで来てもらえるか?」
「それは、もちろんです」
「助かる。となると〝枷〟を外さないとな」
ヘブロンが頷く。
「すっかり忘れておりましたなぁ。たしかに、枷をつけたまま宮殿にあがることはできませんな。そんな危険人物を皇帝陛下の前に出すのかといわれてしまいますわい」
ヤズデギルドが後頭部の髪を持ち上げる。
寄生生物の〝枷〟が張り付いていた。ヒトデのように触手を広げ、周辺組織と一体化している。ヤズデギルドの思念で、リガを殺してしまうという不気味な生き物だ。
ヤズデギルドが「う」と小さくうめくと、触手がピン!と張り、ころころと彼女の背中を伝って地面に落ちた。
ヘブロンが拾い上げる。タコの干物といった感じだ。六本の触手がくるりと丸まっている。
リガの背筋に強烈な悪寒が走った。続いて、何かが後頭部で髪の毛をかきあげ、そのまま髪にひっかかった。
ヤズデギルドが「どれ」と立ち上がると、リガの正面から両の手を後頭部に回し、彼女の髪をやさしくかき分け、からまっていた枷をそっと外した。
ヤズデギルドが、両腕をリガの頭に回したまま、至近距離から彼女を見つめる。
優しい口調でいう。
「すまないな。帝都に着けばお前を危険から解放できるはずだったのだが。いましばし頼むぞ」