帝都百景
穴の底の湖の大きさは、直径二キロほどか。
湖面からは、白く濃い湯気がもうもうとたちのぼり、わずかではあるが、この〝天井〟付近にまで達している。
リガは、眼前に漂ってきたモヤに手を伸ばした。
モヤは、水滴となって肌に張り付く。
彼女は、ぼくの指示に従って、手を口元に持っていき、舐めてみた。
匂いも味もない。
つまり、下にあるのは温泉ではないということだ。
まあ、この世界はダイソン球なのだから、火山由来の湯などあるはずないが。
リガの動きを見ていたヤズデギルドがいう。
「〝湯気〟が不思議か? 母艦の風呂で目にするのと同じものだ。規模が少々大きいがな」
「その、下に見えているのは、何なのですか?」
「〝湯畑〟だ。作物を収穫するがごとく、湯を収穫する」
ヤズデギルドが、湖の端にある四つの四角錐を指した。
「見えるか? あそこに反応炉が収まり、莫大な熱を発している。湖から引き込まれた水は高温の水蒸気に変わり、管で帝都内のあらゆる施設、帝都外の周辺都市へ送られる。余った熱は湖の中に放出され、〝蓄熱〟される。湖は湯となり、熱の一部は、この通り、湯気となって空気中に流れ出す」
なるほど。道理でさきほどから、リガが暖かさを感じていたわけだ。あの湖は、この巨大な穴全体を温めているわけだ。
しかも、道を降るに連れて、暖かさが増している様に感じられる。
帝都に入って数分、母艦はすり鉢の縁をなぞりながら、少しずつ下っている。
甲板上の兵士たちは気が急くのか、手すりを叩いて、「もっと速度をあげろ!」と騒いでいるが、母艦の速度は遅い。せいぜい時速三十キロというところか。
これは道幅を考えれば無理のない話だ。
なにしろ母艦の艦幅ぎりぎりしかないのだ。
安全マージンといえるのは、幅五十センチほどの沿道だけだが、そこは群衆で埋め尽くされている。
艦橋で、操舵係が誤れば、彼らを巻き添えに、穴底目掛けてまっしぐらだ。
艦の前には、帝都の巨人が四機、後ろには軍団の巨人が四機付いているが、その程度の数では、落下する母艦を止めることはできないだろう。
道の先に目をやると、日本の山道で見かける様な〝待避所〟があった。小さな運送艦と警備の巨人二機が、こちらが通り過ぎるのを待っている。
さらに向こうの待避所、そのまた先の待避所でも、母艦の通過を待っている船がいた。
どうやら、ヤズデギルド御一行の優先順位は相当に高いらしい。
壁に張り付いている、薄っぺらい家々の窓からは、市民が顔をのぞかせ、甲板上の兵士たちに手を振る。家の材質は石、それに木材だ。
木、だって?
リガがもう一度、下を覗き込む。
あった。
湖の周りに、緑色の葉をしげらせた木々が見えている。かなり大きな森だ。
しかし、温度と水の問題はないにせよ、日光はどうするのか。屋根はわずかに光を通しているものの、明らかに光量不足だ。膨大な数の街灯が、穴全体を柔らかく照らしているが、あの程度の光で光合成ができるのだろうか。
ぼくの疑問をよそに、船は着実に進んでいく。
一時間ほど降り続けたころには、気温はずいぶんとあがり、壁に張り付く家も大きくなっていた。金持ちほど底に住むというわけか。
家々の大半は五階建てで、三階から上は道に向かって大きく迫り出し、なかば庇のようになっている。上層階を支えるのは、壁から斜めに突き出した鉄や木の杭だ。正直、頼りない。
しかも、住人たちは、窓から精いっぱい身体を伸ばして、母艦を見ようとするのだ。
重心が偏り、建材の軋む音が響く。
大丈夫なのか?
ぼくが不安を覚えていると、母艦が急停止した。
ヤズデギルドが「なんだ?」とつぶやく。
すぐ前方の待避所だ。小さな船が一隻、道に船首を出していた。
母艦が突っ込んだら、たいへんな惨事になるところだ。
母艦が止まったことで、真横の壁に張り付いたいくつかの豪邸の住人達が、わっと騒ぎ始めた。
彼らは歌い、飛び跳ね、床板を鳴らし、上層を支える支柱に負荷をかけ続けた。
ひときわ大きな豪邸の柱が折れ曲がり、家全体が母艦に向かって倒れ込んできたのは、必然の流れだったのかもしれない。




