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第七話 プレートランチ

今回の話はカンフー映画、特に詠春に興味がおありの方はグッとくるあの人が登場する…かもしれない





ある日の正午。


林はこの仕事について初めて貰えた休日を存分に満喫すべく、一人尖沙咀を歩く。


無論格好はメイド服などではなく、黒の長袍に黒の中折れ帽(フェドーラ)の男装だ。


シャーロットの寝ている時間帯を見計らい屋敷をこっそり抜け出してきたのである。


故郷とは全く違う、ネオン看板犇く香港の繁華街と大河のうねりのような人の波に気圧されながら林は町を歩く。



(さて、何をしようか…)



午前中は市内見物をしながら本屋や煙草屋などを回り、屋敷で暇を潰す為に必要な物を大体買い込んだし、今の時間帯どこの飲み屋も雀荘も開いていない。



(とりあえず飯だな…)



林はとりあえず目に止まったオープンカフェ風の茶餐廳(チャーチャンテン)に入り、席を探す。


生憎、飯時ということもありどこの席もサラリーマンやカップル、郵便屋などでごった返している。



(仕方ない。他の席を探すか…)



林が席を探すのを諦めて店を出ようとした瞬間、ふと近くの二人用テーブルで茶を啜る黒い長袍姿の初老の男が目に止まった。



「……オッサン、ここ空いてる?」



「……ああ、空いてる」



「それは良かった。他に席がないもんで。同席しても?」



「……無問題(モーマンタイ)。構わんよ」



「オッサン、地元の人じゃないな?こっちに来て長いのか?」



「……そんな事聞いてどうする」



「いや、実は俺、大陸からきたばかりで、ここの食い物に疎いんだ。折角だから香港の名物料理をと思って」



男は黙って卓上のメニュー表を掴み、指差した。



「このプレートランチにしなさい。4つの料理が一皿で食べられる。合理的な料理だ」



「へぇ……オッサンは注文したのか?」



「ああ。もうじき来る」



男がメニュー表を再び卓上に戻すと、カッターシャツの上にチェック柄のベストを羽織ったウェイターが湯気の立ち昇る皿を持って林達のテーブルに現れた。



「いやぁ(イップ)先生。いつものやつお待ちどおさま。悪いね、今日は特段混んでて」



「いや、別段急ぎではない。有り難く頂くよ。(ワン)さん。お代は大家につけといてくれ。あと、この若者にも同じ物を頼む」



「あいよ!おいお前ら、オーダー入ったよ‼︎」



王と呼ばれたウェイターは、そのハイカラな見た目とは裏腹に野太い声で厨房に向かって声を張り上げた。



男は茶で箸を濯ぎ清めると、グラスの中身をコンクリートの地面に捨てた。



「悪いが先に食べさせてもらう。冷めた料理は胃に悪いからな」



「どうぞ俺にお構いなく。それよりオッサン、さっき(イップ)って呼ばれてたが、もしかしてあの伝説の詠春拳使いの葉問(イップマン )か?仏山を追われて香港に逃げたってあの噂、本当だったんだな」



「…………」



葉は、林の話にピクリとその太い眉を動かしたがすぐに元の仏頂面に戻り



「いや、そんな男は知らない」



とだけ言って目の前の料理を頬張った。



「なんだ、早とちりか。まぁ葉なんて姓の奴、この狭い香港見回しても星の数ほどいるだろうし、そう簡単に会える訳ないか」



一人そう呟いているうちに、林の分の皿が運ばれてきた。



* * * *



一通り食事を終え、林は蓋碗の鉄観音を一口啜って口内に残る油気を洗い流すと、午前中土産屋で買った翡翠のシガレットホルダーに両切り煙草を差し、マッチを擦った。


向かいに座る葉も紙巻煙草を咥え、紫煙を蒸した。



「なかなかどうりで、旨い店だな。葉さん。今度来た時店が混んでたら、また同席させてくれないか?」



「……来たきゃ来ればいい。私はほぼ毎日ここへ来る」



林がタバコを消しながら愛想よくそう言っても、葉は一度も目を合わす事なく静かに言った。



全く……オッサンというのは何とも気難しい生き物だと林は心の中で軽口を叩きつつ、ズボンに差した財布に手を伸ばす。



「あれ?おかしいな……」



スられた——林はそう直感し、周りを見回す。


楽しげに食事を楽しむ家族、若者、老夫婦、サラリーマン。


昼飯時の茶餐廳は人の入れ替わりが激しい。故に、犯人は簡単には見つからないだろうなと半ば諦めつつも、林はとりあえず一番怪しい後ろの席の、昼間から猥談を楽しんでいるガラの悪そうな若者グループににじり寄った。



「おい、お前ら。ここで財布を落としたんだが、何か知らないか?茶革の長財布だ」



「さぁて、知らねぇな」



グループの内恐らく親玉格の、虎柄シャツの上から白いスーツを雑に羽織り茶のサングラスと中折れ帽を身に付けた男は林にそう返すと、すぐ身内との談笑に戻り人目も憚らずゲラゲラと笑い始めた。


林はその隙に男の長方形に膨らんだ左ズボンポケットに手を伸ばし、中身を引き抜いた。



「おいっ!何しやがる⁈」



「これと全く同じ財布だ」



「俺んだ‼︎」



「じゃあ訊こう。俺は財布にお守り代わりに石を入れるのが好きでね。この財布の小銭入れには何が入ってると思う?」



「それは……」



「フッ、わかる訳なかろう。答えは水晶だ。ほらよく見ろ」



林は財布の小銭入れを開くと、香港セントの中で輝く小さな水晶玉を皆に見せた。



「ふんっ、くだらねぇ御宅をゴチャゴチャ並べ立てやがって!俺の財布を返せよ‼︎」



「取りたきゃ自分で取れ」



林が財布を掲げながらそう言うと、男は勢いよく手を伸ばすが、林はひょいひょいと手首を回して財布を縦横無尽に動かす。



「ほら、取れよ」



「ええぃっ!このっ!このっ‼︎——ってうわぁっ⁈」



男が手を伸ばすのに合わせて林はその裾を掴み、身を翻してグッと引っ張ってやると、勢いののった男の身体は前につんのめり、その額は先程林が座っていたテーブルのヘリに激突する。



「あ痛ぁ……テメェ‼︎俺らに喧嘩売る気か?」



「そっちこそ、盗みを働いておいてつらつらつらつら言い訳とは見苦しいぞ。男なら堂々としろ」



「んだとこのガキィ……おいお前ら、やっちまえ‼︎」



「「おうよ」」



敵は親玉と、子分格の2人を入れて総勢3人。


林は足を肩幅に開くと、伸ばした両手を身体の前で保持する問手(マンサオ)の型を取った。


裸に金刺繍のシャツを羽織った子分の1人目がテーブルに飛び乗り、飛び蹴りを繰り出してくる。



「食らえ‼︎——って何⁈うわぁぁっ⁈」


林は半身になると迫りくる男の足首を両手で抱え、勢いを殺さない内にぐるりと半回転させ、先程自分と葉が座っていたテーブルに叩きつける。



硬い木のテーブルは卓上の調味料や茶碗を撒き散らしながら大きな音を立ててぐしゃりと潰れた。


あたりでワーキャーと悲鳴が聞こえ、食事や茶を楽しんでいた客達が次々と逃げ出してゆく。


もう2人目の子分と親玉は左右から挟み込むようにして林に突撃する。


林は隻佛手(ジェクファッサオ)——両サイドへの手刀を繰り出して2人の動きを同時に止めると、まずは各個撃破と親玉の懐に横脚を繰り出してから子分にチェーパンチを鳩尾から喉、人中にかけて打ち込み昏倒させる。


次いで背中から来る親玉の蹴りを振り向きざまに躱し、蹴り足を引いてやって膝あたりを踏んでやると、親玉は股割の姿勢を取らされる格好になり、あまりの痛みに大声で叫び始める。



「フッ、どいつもこいつも口程にもない奴らめ」



林は勝ち誇った表情でそう吹くと、親玉の膝から足を離してやる。



「さて——っ⁈」



不本意とはいえ店を荒らしてしまい、設備のいくつかを台無しにした事に対してどう償おうかとあれこれ考えていると、林の視界を突如、胡椒のような強い刺激臭のする粉塵が奪った。



何度か咳き込み、絶え間なく涙が溢れる両眼を長袍の裾で拭うと、林はぼやけた視界の中に何か調味料の瓶のようなものを投擲姿勢で構える1人目の子分の姿をうっすらと確認した。



「よし‼︎目潰し成功だ!お前ら、この生意気なクソガキをフクロにすんぞ‼︎」



親玉がそう叫ぶと同時に、3人の人影が瞼を押さえる林に向かって一斉に飛び掛かった。







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