第三話 内定
「いやはや驚きましたな。初めてですぞ。私に勝つ事が出来た武術家は」
「あんたが老いぼれで、頭に古傷があっただけだ。俺はまだまだ半人前。上には上がいる」
先程の応接間。
こめかみに血の滲んだガーゼを貼った林は、同じくこめかみを氷の入った布袋で冷やすウィリアムに謙遜とも罵倒ともとれるような軽口を飛ばしつつ淹れ直された紅茶を啜り、菓子をつまんだ。
「さて、そちらが良ければ是非とも仕事の話をしたいのだがよろしいか?もしまだ頭が痛むなら出直すが…」
「いえいえ結構ですとも。大事な客人をこちらの都合で追い返しては、家名に傷がつきます。どうぞごゆっくりと」
「俺は試験に受かった。よって俺はここの従業員。あんたは俺の上司だ。変な気は使わなくていい」
「……わかりました。では、早速今後の話に入らせていただきます。ご存知の通り仕事内容はお嬢様が所用で外出される際の護衛。住み込みで働いて頂く形で衣食住は保証いたします。ですが……」
「何だ突然言い澱んで。さては言いづらい事でもあるのか?」
「そうセカセカしないで下さいよ。実はですね…」
ウィリアムは後退した額をポリポリと掻きながら言いづらそうに呟き、テーブルの下から小さな箱を取り出した。
「お嬢様様は大変な男嫌いでして、業務の際は林様にはこれを着て頂いて、男であることを隠して過ごして頂きたいのです……」
ウィリアムが取り出した箱を開け、中身を漁る。
中身は白のヘッドドレスに黒ショートの鬘、黒のワンピースにタイ、エプロン、ローファー。所謂ヴィクトリアンメイドの装いだ。
「なぁヴィッカーズさんよ、昼間から白酒でも呑んだのか?それともさっきの試合で頭イカレたか?」
はぁっ……とため息をつきながら、達観したかのようにウィリアムは言葉を続けた。
「私だって本当は言いたくないんですよこんな事は。なにせ香港人多しとはいえ、私に勝てるような逸材は滅多にいませんでしたから。こうして具体的なお仕事をご紹介するのも初めてですし……」
「愚痴はいい!着ればいいんだろう?そして男だとバレなきゃいいんだろう?」
「あー、あー」と裏声を出してみる。京劇の女形程ではないが声は高い方だし、容姿も「女みたいだ」と地元の悪友にからかわれるほど中性的ではあるので、女に扮するのは実質不可能ではない。しかしいかに言いづらいとはいえ、募集要項にそういうことを書かなかったウィリアムの狡猾さに林は少々苛立った。
世の中、うまい話はないとはよく言ったものである。
「ところで気になるんだがヴィッカーズさんよ。お嬢さんの外出時に護衛ってのはよく分かったが、外出しない日は何をすれば良い?まさか日がな一日屋敷で洋食だけ食って紅茶を飲んでブラブラってわけにもいかないだろう?」
「ええ、その事なんですが、お嬢様が外出されない日に関しましては、このお屋敷の清掃や庭の剪定、お召し物の洗濯やお食事の用意など家事全般を他のメイドに混じってお手伝い頂きたいと……」
「やれやれ、俺に女中の仕事をしろってか……まぁいい。飯付き宿付きで月に10香港ドルも貰えるなら願ったり叶ったりだ。埠頭の日雇い荷運びよか100倍マシだ。その話乗った」
「こちらの勝手な事情、ご理解頂き誠に有難く思います。では、これからお住まいになるお部屋の方へ案内致しますので、今後の仕事内容に関しては部下のメイドになんでもお聞き下さい」
行李を抱えたウィリアムに促されるがままに林は席を立ち、応接間を出て高級そうな絨毯を布靴で踏みながら足を進めた。
* * * *
「こちらが今日から過ごして頂くお部屋になります。風呂は部屋を出て左、厨房と洗濯室は地下にございます」
「了解だ」
部屋の間取りをぐるりと見回す。元々客人用の部屋らしく、ベッドと洗面台、出窓と机に椅子、クローゼットだけの質素な設えだ。
出窓には植木鉢が置れているだけで、他は何もない。
狭いが悪くない。男一人が暮らすには十分な部屋だ。
通常一人部屋が与えられるのは執事クラスからで、他のメイド達は屋根裏部屋を寝室として使っているらしいが事情が事情だ。これも執事の計らいなのだろう。
「今後の生活や仕事内容に関しては、こちらの二人に何でもお聞き下さい。では」
ウィリアムが姿を消すと同時に、ドアの影から二人のメイドが現れた。
一人は20前後、結い上げた髪は金で碧眼。豊満で背が高い。磁器のような白い顔に妖艶な笑みを浮かべた西洋人の女性。
もう一人はおそらく林と同世代。茶髪。インド系の血が入っているのかやや褐色がかった肌をしている。背が低く、身体のラインの方も控えめだ。
「あら、いらっしゃい。貴方ね?今日からここで働いてくれるっていう子は。可愛い見かけによらず拳法の使い手だなんて…お姉さんドキドキしちゃうわ❤︎」
「あの、お名前は……」
「私?私はマーガレット・メトフォード。ここのお屋敷のメイド長をしているわ。分からないことがあったらなんでも聞いてね。手取り足取り教えてあげるから。ウフフ」
始終誘うような扇情的な視線を向けるマーガレットに、林は少しドキッとしてしまう。だがあくまで仕事の人間関係だ。どうせ優しいのは初めの数日だけだろうと気持ちを落ち着かせた。
「私はフレデリカ・トンプソン。カンフーの達人だかなんだか知らないけど、くれぐれもお嬢様の前でボロは出さないようにね!以上っ」
フレデリカの方はマーガレットとは対照的だ。何が不満なのかつっけんどんな態度で橙色のツリ目で林を睨みつけながらそう言った。
「荷物の片付けと着替えが終わったらまた呼んで頂戴。私達は居間の方にいるから」
そう言って二人はカツカツとローファーを鳴らしながら部屋を出て行った。
「さて……」
林は椅子に腰掛け、自分の身に付けている薄汚れた黒の長袍と、ダンボール箱に詰められたメイド服一式を見比べながら、神妙な面持ちで「はぁ」と溜息をついた。