第二話 詠春拳vsボクシング
屋敷の応接間の一角で、林はふかふかのソファに座り、卓上で執事の淹れるアールグレイを啜り、ケーキスタンドに積まれた洋菓子を頬張る。
「美味いな。これが西洋の紅茶か。こっちは月餅か?」
「いえ、こちらは蛋撻でございます。こちらのスコーンと胡瓜のサンドイッチも、私配下のメイド達が真心込めて作ったものですので、ぜひお召し上がり下さい」
「ほう、胡瓜を面包で挟んだものがもてなし料理とは…やはり洋人の考える事は分からんものだな」
林の歯に絹着せぬ物言いに執事はやや眉をひそめたが、すぐに真顔に戻り林に正対する。
「さて、前置きはこのくらいにして、そろそろ本題に入りましょう」
「ああ、頼むよ」
「私は当館の執事、ウィリアム・ヴィッカーズ。この香港で貿易商を営むエンフィールド家にお仕えしている身でございます」
「俺は林世官。広東省の仏山の生まれだ。よろしく」
「今回は当家の護衛業の採用試験にご応募頂き誠にありがとうございます。早速ですが、林さんは武術などの経験はおありでしょうか?」
「ああ、詠春拳を少し。親父があの陳華順の弟子でね、俺もしょっちゅう習ってた」
「ほう。詠春を……成る程、それは楽しみです」
「何が言いたい?例の実技試験の事か」
「ええ。噂でお聞きでしょうが私も武術の心得がありましてね……これまで、お越し頂いた方々とは必ずお手合わせをさせて頂いおります」
「そんなに強いのなら、あんた自身がお嬢さんを護ればいいんじゃないのか?」
「いえいえ、私には執事本来の仕事があります。それに寄る年波には勝てませんし、先の大戦の時シンガポールで負った傷も近頃痛みます。ですからお嬢様の外出の際には、若くて腕の立つ方が必要なのです」
「外出時に護衛が必要とは……さては堅気以外の仕事もしているな?」
「あまり大きな声では言えませんがね……しかしこの香港の歴史を紐解けば、我々英国人とあなた方中国人の因縁は根深い。誠に残念なことですが公権力に頼るだけでは、我々の商売というのは立ち行かないのですよ」
ウィリアムの話を一通り聞くと林は冷めた紅茶を飲み干し、席を立った。
「そういう事なら話は早い。要は実技試験であんたをぶっ倒せば合格なんだろう?細かい話は後にして、早速手合わせ願おうか」
「ほっほっほ…話の早いお方だ。それでは僭越ながらこの私めが直々にお相手致しますので、奥のお部屋でお待ち下さい」
「了解した」
* * * *
「詠春拳、林世官」
屋敷の大広間。先程のヴィクトリア様式の絢爛豪華な応接間とは打って変わって家具どころか観葉植物一つなく、ただ光を入れる玻璃窓だけが等間隔に並んでいる殺風景な部屋の中で、林は詠春の構えを取った。
対するウィリアムは黒い羊毛のジャケットを脱ぎ、ジレとカッターシャツだけの簡単な格好で、ボクシングの構えを取る。
「西洋人は流派と名を名乗らないのか?」
「ええ。ボクシングの試合では通常リングに上がる際、実況者が選手の名前を呼び、観客が歓声を上げるのです」
「成る程。まるで見世物だな」
「ほっほっほ……では」
通常ボクシングの試合形式は3分3ラウンド、リングにはレフェリーと厳格なルールが付き物だが、今回の試験ではルール無し、「動けなくなったら負け」の何でもありだ。
林はゆっくりと円運動をしながら足を進め、素早く正脚をウィリアムの前足に叩き込む。
ウィリアムはスッと足を引き、そのまま横蹴りを繰り出す。
林は膀手でその蹴りをいなし、灘手の姿勢を取る。
暫くの睨み合い。
ぴかぴか輝く革靴で軽くステップを踏むウィリアムの一瞬の隙をついて、林は突進し、その白い口髭を狙って日字衝錘を打ち出した。
「…⁈」
自分より頭ひとつ背の高いウィリアムの姿が突如消える。林の縦拳は宙を切り、同時に右の脇腹——肝臓のあたりに木槌で殴られた時のような鈍痛が走る。
ダッキングして突きを躱したウィリアムの左ボディブローが林の身体に突き刺さったのだ。
「…ッ‼︎」
次いで迫りくるジャブ、右ストレート、フック、アッパーの雨嵐。
林は黐手——詠春の鍛錬に於いて多用される二人一組のスパーリングの要領で一発一発をいなしていくのだが、防ぎきれなかった左フックが林の右顳顬を直撃した。
揺れる視界。返る天地。脳震盪こそ起こさなかったものの、側頭部から頬にかけて伝わる生暖かい感触と、赤く染まったウィリアムの白手袋を見るに切り傷を負ったようだ。
(我々とは戦い方が根本的に違う‼︎)
林はそう直感した。
「降参なさいますか?林様」
見上げるとウィリアムが絹のハンカチを差し出しながら片膝をついていた。
「いや、まだだ」
林はハンカチを奪い取ると顔を乱雑に拭い、再び構えの姿勢を取り対峙した。
「ほっほっほ…では」
ウィリアムはその長い両脚で回し蹴りを繰り出し、ワン・ツーを繰り出す。
林は蹴りを肘で受けながら次いで迫りくるパンチを拍手——平手での防御で躱す。
縮まる彼我の距離はゼロになり、やがて首相撲の姿勢となる。
(あの傷は…⁈)
その枯れ枝のようなら身体のどこにそんな力があるのか只管自分を組み伏せようと圧力をかけてくるウィリアムの顔を見上げた林は、右側頭部——ポマードで固められた白髪の生え際のあたりに数厘米の古傷があることに気づいた。
林はクリンチの姿勢を脱するべく、足への踏みつけ、左脇腹への打撃等を繰り出し自由の身となる。
すかさずウィリアムは右ストレートを繰り出してくるが林はその動きを見切り、自分の右手をウィリアムの右手に絡め、左手で日字衝錘を叩き込む。
狙うはウィリアムの左生え際——古傷の位置だ。
「——What⁈」
先程からこちらの突きをものともしなかったウィリアムの身体が蹌踉めくのを見て、林はニヤリと笑う。
詠春拳の突きは破城槌の原理と一緒だ。
どれほど硬い丸太を用いても、一撃で城門を破るのは難しい。
しかし何十、何百回と打ち据えたなら、あるいは城門に亀裂があったのなら、城門を突き破り何百もの兵を突入させられる。
林はウィリアムに近づくと、猿や蛇のような俊敏さで円運動しながら彼のパンチやキックを避けつつ、ウィリアムの身体にチェーンパンチを放つ。
狙うは側頭部。
当然ウィリアムは自分の頭を守ろうとガードの姿勢をとるのだが、その隙に林はおざなりになった中肋骨や脚部に容赦なくチェーンパンチや蹴りを浴びせ続け、再び蹌踉めき始めたウィリアムの重心を崩すべく腰を使って彼の細い両脚を両手で刈り取る。
「Son of a——」
そう言い終わらないうちに倒れたウィリアムの頭側に回った林は彼の両鎖骨に膝でのしかかり、チェーンパンチを彼の頭から胸にかけて雨嵐のように打ち下ろし続ける。
頭を守り、立ち上がろうとするウィリアムだが、両肺から鳩尾に掛けて振り下ろされる容赦のない突きにとうとう咳き込み、過呼吸を起こし始めた。
「アーユーオールライト?」
床に伏して胸を押さえ、肩で息をするウィリアムを見下ろしながら林がそう尋ねると、ウィリアムは答えの代わりに親指を上へグッと突き出した。