第一話 八極拳vs詠春拳
「ここか…」
埠頭からしばらく歩き 尖沙咀のはずれにある洋館に辿り着くと、林は長袍の懐から煙草を取り出し、マッチを擦った。
「おいそこのお前、まさかここの護衛屋の面接にいく気か?」
木蔦の張った赤煉瓦の塀の陰から、薄汚れた青灰色の袍パオを着た小太りの男が現れ林にそう尋ねた。
「そのつもりだが…」
「哎呀やめた方がいいと思うぜ?確かに応募条件は『健康な若い男子』ってあったから俺も受けたんだけどよ、ここはマジでやべぇ」
「やべぇって何が?」
「試験だよ試験。面接受けたら試験があんの!試験官のジジイが滅茶苦茶強いのなんのって……今まで腕に覚えがある奴が軒並み入ったんだが、奴の西洋拳法にやられてみんな鼻や肋を追って逃げ出したって話だ」
「あんたは?」
「聞いてくれるなよ。もし受かってたらこんな所にたむろしちゃいねえ。まぁ俺もこう見えても武術家の端くれ。河北で敵なしと言われた呉氏開門八極拳使いの陸と言ったらこの俺様のことだ!」
そう言うなり陸は半身の姿勢を取り、縦拳で宙に半円を描きながら構えの姿勢を取った。
「なぁ兄さん。一度俺と手合わせしてみないか?あの爺さんに負けた俺にすら勝てねぇようじゃ、どうせ受けても無駄足だ。とっとと帰った方が身のためだぜ」
「…言われてみればそうだな。よし。手合わせ願おうか」
林は二字鉗羊馬——即ち足を肩幅に開き膝を内側に絞る姿勢を取り、両脇に丸めた拳をゆっくりと開いて正中線に重ねる灘手の型を取った。
「詠春拳、林世官」
「詠春?女の型だな。南派の拳法で北派の俺にどう勝つか見せてもらおうじゃねえか!」
陸はそう言うなり両腕を右、左の順に大振りでぶん回し、林に迫りくる。
林はそれを 膀手——肘を掲げて掌を外側へ向ける防御姿勢で防ぎ、くるりと手首を返して陸の鎖骨目掛けて両手で強力な佛手——手刀をたたき込み、再び手首を返して標指手を突き出した。
「うあぁっ⁈目が……目が痛え畜生っ‼︎」
目突きを喰らった陸は石畳を転げ回り両目を抑えた。
勿論寸止めだ。失明しないように軽く指先で眼球をつついた程度なのだが、人間から一時的に視力を奪い痛みで戦意を喪失させるには十分な威力である。
「 他妈的‼︎こん畜生……よくもやりやがったな⁈」
陸は目を擦り終えると立ち上がり、突進しながら連環腿——連続蹴りを繰り出す。
一撃目、二撃目を耕手、欄手で躱し、次いで三撃目が迫りくる瞬間に陸の蹴り足の向こう脛を正脚——ストレートキックで踏みつけ、そのまま横脚——サイドキックで軸足を刈り取る。
「ん?うああっ⁈」
林は重心を失い石畳に再び転がった陸のもとに素早く駆け寄り、素早く日字衝錘——要は縦拳をあらん限りの素早さで浴びせる。勿論陸の顔面から一厘米センチ離しているので怪我はさせない。
「こ…降参だ……!」
「好。受け入れよう。さあ立って」
林は陸の手を取り立たせると、埃のついた陸の肩を払ってやった。
「あんた意外と強えじゃねえか。 人不可貌相。人は見かけによらずってよく言ったもんだぜ。あんたならあの洋人の爺さんに勝てるかもな」
林は何も言わず、供手の礼をすると、振り返り、鉄製の柵の向こうに広がる英国式庭園を見据えた。
しばらくすると、「カツカツカツ」と革靴を踏み鳴らす優美な音と共に、執事の格好をした白髪に片眼鏡の背の高い老爺が現れ、門を挟んで林の前で立ち止まった。
「チラシを見た。護衛屋の仕事を受けたい」
「……存じ上げました。さぁ、こちらへどうぞ」
執事がガラガラと門を開き、林を通し、再び閉める。
錆び付いた戸車の軋む音が止まると同時に、ぴしゃりと門が閉じられる。
その門は林の人生に於いて大半を過ごしてきた貧しく埃臭い中国農村の俗世と、極彩色に満ちた西欧貴族の浮世を隔てる象徴的な物となったのであった。