序章 埠頭にて
1960年。英領香港 どこかの埠頭。
白い昼下がりの陽光を反射させながら一定のリズムで揺れる維多利亜湾の紺碧の水面を眺めながら一人の若者、林は紫煙たなびく手巻き煙草を咥え、ふぅっ…と一息ついた。
故郷の仏山から広州を経て密航船に乗って何百里。
故郷から持ってきたのは一包みの行李と両親から貰った僅かばかりの餞別のみ。
弁当代わりに渡された包子は道中で食ってしまったので、こうして空腹に耐えかねて埠頭のボロい茶屋に入ったという訳である。
「お兄さんお待たせ!雲呑が茹で上がったよ!さぁさ熱いうちにどうぞ」
燃え尽きて豆粒程になった煙草を海に投げ捨て、口直しに汚い木製の卓上に置かれた蓋碗の緑茶を一口啜っていると、やけに気の良さそうな店主らしき中年男性が厨房から現れ、鶏ガラの湯がなみなみと張られた鉢を林の席へと置いた。
「……量が多いな」
代金として壹毫を店主の長袍の袖下に捻じ込みながら、林は湯気の立ち昇る琺瑯製の鉢を覗き込んだ。
「お兄さん。今日はツイてるねぇ!朝から店開いてるのに生憎の不況で全くお客が来ねぇからさ、売れ残った雲呑はサービスしといた。見たところ腹が空いてそうだし、遠慮なくたんと食ってくれや」
「儲からないのか?」
出涸らしの茶で箸を清めてから雲呑を頬張り、林は尋ねた。
「ああ全くだ。こっちは3代も前からここで船乗りや港湾労働者相手に店をやってんだ。ここに来た誰もが『陳さんの雲呑は最高だ!また来るよ!』って帰っていったのに最近じゃお客がとんと来やしねぇ。どれもこれもあの英国人共の所為だ!俺たちのシマからべらぼうに高ぇみかじめ取りやがって!これじゃ商売あがったりだ畜生!」
陳の話を聴きながら2〜3人前はあった雲呑を平らげ、鉢に残った湯を金属製の散蓮華で啜りつつ林は考えた。
故郷に両親を残し、命からがら香港に密航してきたはいいものの、来てみたら生憎の不況。早めに仕事を見つけなければ干上がってしまうのは時間の問題だが、生憎自分には医者や床屋のような、どこでも通用するようなスキルはない。
強いてあるとすれば、腕っ節の強さと要領の良さくらいか…。
「なぁ陳さん、この辺で割りの良い仕事を知らないか?」
「何?仕事だと?お前さんわしの話を聞いてなかったのか?今は飯屋も飲み屋も酒店もどこも不況!この辺の埠頭で働きたいなら紹介してやらんでもないが、おすすめはしないね。仕事はきついし給料も安い。日の出から日没まで働いたとしても、日銭の半分は飯代と宿代で持ってかれちまう」
「あれに応募しようと思うんだが」
林は箸で茶屋の壁に貼られた藁半紙のチラシを指しながら言った。
チラシの中には
護衛員募集中。
月給10香港ドル(昇給あり)
衣食住保証
応募条件:健康な男子
の文字があった。