おかえり
「あの、ネットで見たこの部屋なんですけど」
僕がスマホの画面を向けると、不動産屋のおじさんは眉をひそめた。
「その部屋はね、以前住んでいた人が亡くなっているんだ。安いっていうので入る人は多いけど、長続きしないんだ」
必死で貯めた一人暮らしの資金だ。安く済めばそれに越した事はない。
「ぜひ、見てみたいんですけど」
「若い人は、怖いもの見たさでそう言うんだ。まあ、借りてくれるならこちらも有り難いがね」
超常現象のたぐいは、まあ話としては面白いと思うし、霊感なんかあったらちょっとカッコいいかもしれない。しかし実際にはそういった物事とは無縁で二十年間生きてきたので、破格の物件をみすみす見逃すという選択肢はなかった。
「僕、そういうの大丈夫なんで」
「みんなそう言うんだよねえ」
不動産屋はいたずらっぽく笑った。
日の当たるフローリングの部屋。八畳?くらいだろうか。トイレとバスも別々だ。
「いい部屋ですね」
僕は思わず口走る。
「ええ、部屋はいいんですけどねえ」
僕はそれを聞き流しながら、家具の配置について考え始めていた。
「うん、やっと片付いたとこ」
数箱の段ボール箱が無造作に置かれた部屋で、僕は電話をかけていた。
「荷ほどきはゆっくりでいいかなって、うん、母さん。大丈夫だよ、子供じゃないんだから……」
親への連絡を済ませると、いよいよ引越しも終わりという感じがした。そうだ、メシにしよう。腹も減ってるし。
歩いて数分のコンビニで、弁当と缶ビールを買う。コンビニが近いのもポイントが高い。
「ふふ、楽しくなりそうだ」
声には出さなかったが、顔はニヤけていたかもしれなかった。
たそがれ時の町を、ビニール袋をぶら下げて歩く。見慣れない風景をぼんやりと眺めながら、気がつけばアパートは目の前だった。
鍵を開けて、部屋に入る。昨日まで実家暮らしだった者には新鮮な動作だった。
「ただいま……なんちゃって」
ふざける僕。夕焼けが暗い部屋を赤く染めている。
「おかえり」
女性の声がそう言っていた。
一瞬とまどい、そして身構えた。誰だろう、母でも妹でもない、聞いたことのない声だった。
「だ、誰かいるんですか」
膝をガクガクさせながら、僕は振り絞るように言った。
「おかえり、おじさん。……ていうかお兄ちゃんって感じだね」
小さな人影が、段ボールの陰から覗き込んでいた。
震える手で電気をつけると、部屋が明るくなった。
「まぶしー」
小学生か中学生か?僕の肩くらいまでしかない、華奢な少女が、額に手をかざしていた。
「君は、一体……」
言いながらも、僕は確信していた。「ああ、コレか」と。
「わたしはここにずっと前からいるの。お兄ちゃんが新しい人?」
「まあ、そうなるかな」
前の人のことは知らないけど。
僕は床に弁当を無造作に広げて、缶ビールを開けた。
「その……なんか食べる?」
「ううん」
少女は首を振る。
「遠慮しなくていいよ」
「食べないの」
そうか。僕はビールを飲んで、ひと息ついた。
「えーっと、つまり、キミは幽霊ってわけだね」
「うん。っていうか、お兄ちゃんはわたしが怖くないの?」
弁当の揚げ物をビールで流し込む。
「そういうふうに言われてたから。それに……」
少女のあどけない顔の上で、大きな瞳が不思議そうに揺れている。不意に目が合うと、彼女は視線をそらした。
「そんなに見ないで……」
うん、これなら怖くない。よかった……
その時は、そう思っていたんだ。
フローリングに布団を敷いて、寝る支度をする。
「幽霊って寝るの?」
「うん。寝るよ。ふつーだよ」
普通じゃないよ、と思いながら僕はトイレに向かう。
「お兄ちゃん?」
「トイレ」
おかしいな、初めての一人暮らしだったはずなのに。
部屋に戻ると、掛け布団がこんもりと盛り上がっていた。
「おーい、人の布団を使うな」
「お布団久しぶりだなー。柔らかいなー」
くっ、そんな事言われたら追い出せないじゃないか。
「しょうがないな、あんまりくっつくなよ」
「わあ、お兄ちゃん優しい」
「調子がいいもんだな」
「ふふん」
褒めたつもりはないのだが。
「寝てる間に変なことするなよ」
「しないよー」
「呪うなよ」
「のーろーいーまーせんー」
引越しの疲れか、ビールのせいか、僕は猛烈な眠気に襲われて、そのまま眠りに落ちた。
夢だったのか?今何時くらいだろう。よく眠れた……
「お兄ちゃん、おはよう!」
体が揺さぶられる。
「朝から元気だね」
「死んでるけどね」
「……触ったりできるんだな」
「うん」
少女は手の甲を僕の顔に近づけた。
「えいっ」
「冷たっ!」
ああ、本当だ。確かに死んでるんだ。
「お兄ちゃんは学校?」
服を着替える僕に、少女が問いかける。
「今は休みだから、今日はバイト」
「ふーん、オトナだね」
「ふふん、まあな」
幽霊の少女相手に何を得意になっているんだろう。
「留守番できる?」
「大丈夫だよ。ずっと一人だったし」
「……テレビとか、勝手に見ていいからな」
「うん、仕事頑張ってね、お兄ちゃん」
「店長、お疲れ様でーす」
「ああ、お疲れさん」
バイトを終えて家路につく。日が傾いて、西陽が眩しい。あいつ……そういえば名前を聞いてなかったな。帰ったら聞いてみよう。
「ただいま」
とととと、という音がして、少女が駆け寄る。
「おかえり、お兄ちゃん」
「良い子にしてたか」
「子供じゃないもん」
ふくれっ面でそう言う。
「ハイハイ、大人大人」
「お兄ちゃん、ムカつく」
そう言いながら、洗面所に向かう僕の後ろを歩いてくる。
「ところで、キミ、名前は?分からないと不便だし」
手を洗いながら、僕は尋ねた。
「……もうないの」
妙に静かな口調。水の音でよく聞こえにくい。
「もな、って言った?」
「ぷっ、何それ。言ってないよ」
「えっと、じゃあ……」
「いいよ、それで。『もな』」
「もなちゃん、よろしく」
「呼び捨てでいいよ、お兄ちゃん」
「もな」
「もっと優しく」
「調子にのるな……あと、今からシャワーだから、脱ぐよ」
「あ、ハイ」
こうして、奇妙な同居生活が始まったのだった。
数ヶ月が平穏に過ぎた。僕は学校にバイトに忙しくも、充実した日々を送っていた。それに、たとえそれが幽霊であっても、おかえりを言ってくれる人がいるというのは、悪くなかった。
「今日はバイトのあと、飲み会があるから、遅くなるんだ」
朝の支度をしながら言う。
「おお、大学生って感じだね」
「先に寝てるんだぞ」
「んー、どうしようかな」
「帰ってこないかもしれないし」
「……それはやだな」
「まあ多分大丈夫だけど」
大丈夫じゃなかった。駅のホームで、僕は最終電車が遠ざかっていくのを見ていた。しょうがない、満喫で始発まで時間を潰そう、そう思いながら、僕はフラフラと夜の町へ戻って行った。
朝、いつもなら起きるくらいの時間に、僕は部屋に着いた。物音を立てないように、そっとドアを開ける。今日は学校もバイトも休みだし、もう少し寝よう、そう思いながら忍び足で部屋に入った。
「……おかえり」
僕は不意を突かれて驚く。
「た、ただいま。起こした?ごめん……」
部屋の奥、こちらに背を向けて体操座りする少女の姿があった。
「帰ってこないと思った」
顔も上げずに言う。
「いやー、終電逃しちゃって……もな?」
覗きこむと、目に涙を溜めている。
「な、泣くなよ」
「……お兄ちゃんも、私を置いていくの?」
「い、いや、そんなことは」
うろたえる僕に、涙をポロポロとこぼしながら、もなが言う。
「一人はさみしいよ」
「ご、ごめん」
僕は苦し紛れに、彼女を抱きしめた。
「離さないでね」
「あ、ああ」
華奢な少女を抱えた腕が、やけに重く感じられた。
それから、束縛はエスカレートしていった。毎日帰る時間を申告させられ、遅くなると泣かれるのだった。
「お兄ちゃんは、私がいらないんだ」
「わたし、邪魔だったかな」
「面倒くさくてゴメンね」
一方、機嫌の良い時は相変わらず可愛かったし、気のせいか以前よりも甘えん坊になったような気がした。
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
……僕は少し、疲れてきていた。
「あの、部屋のことなんですけど」
不動産屋のおじさんは、一瞬考え込んだ後に、ハッとしたような顔をした。
「おお、あの時のにいちゃんか。やっぱり?」
両手を交差させて、バッテンを作る。
「ええ、ちょっと限界かなって」
「今までの最高記録だったから、イケると思ったんだけどねえ」
そうだったのか。でも、もう……
「なるべく早く」
「じゃあ、この部屋は……」
選り好みをしている余裕は無かった。
引越し、いや、もはや「夜逃げ」と呼んでもいいようなその日が近づいて来ていた。少しずつ荷物を運び出し、残りはもなが寝ている間に用意し、そのままアパートを引き払うという計画だった。別れるとなると少し名残惜しいのと、黙って置き去りにする罪悪感から、僕は彼女を目一杯甘やかしていた。
「お兄ちゃん、ずっと一緒にいてくれる?」
「ああ、ずっと一緒だよ」
「うれしい」
そう言って抱きついてくる。
「わたしね、このために生まれて、……死んだのかも」
「そうなのかな」
胸がチクチクと痛む。
「ふふっ、お兄ちゃん」
僕は冷たい少女の体を、あやすように抱きしめた。
日付が変わった頃、僕は目を覚ますと、持てるだけの荷物をバッグに詰めた。もなは無邪気な表情を浮かべて眠っている。布団やその他もろもろは諦めた。物やお金には換えられないんだ。さようなら、もな。一緒にいてやれなくてゴメン……
「お兄……ちゃん?」
ヤバい、起きた⁉︎
「ずっと……一緒……」
それは寝言だった。幽霊が寝言を言うことを、最後になって知った。
僕は一切振り返らずに、一目散に新しいアパートへと向かった。疲れた……いや、まだだ。部屋に入るまで気を抜くな……
着いた。これで自由になれる。カギを差し込みドアを開ける。物音を立てないように……
「おかえり」