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僕、君、心。

作者: Tsujisawa



 ────初夏。 

 風が頬をすり抜けて、ピンク色の葉が空を埋める。雪は溶け、彩のついた新しい季節が到来して。目まぐるしく移動する二十四の短針。

 何千何万と繰り返されている太陽と月の営み。それは雲しか邪魔できないが、その雲ですら今は空に微塵もない。空に映えているのは夕暮れの太陽ひとつだけで、地平線の向こう側にも異物は見えそうにない。

 今、夕日は目一杯の明かりを放っていて、ぼうぼうと残り僅かの夕方を照らしている。でもそれも当たり前のように、もうじき日は落ちていく。あと数十分間だけこの日没が続いて、やがてオレンジ色の風景はなりを潜める。あとは夜が顔を覗かせて、また少しだけ寂しくて、それでいて暖かい。きっとそんな長い夜が訊ねて来るんだろう。

 だってこの夕日はすごく綺麗で、その次に壇上にあがる月が汚いはずないから。この天気なら曇りのないまんまるな月が姿を見せてくれるはずだ。




 今が哀愁に浸かる時間じゃないことは知ってる。知ってるけど、痛感してしまう。

 流れる時間は僕が思っているよりずっと残酷で、何が起こっても待ってはくれないということ。みんなその中でもがいて、抵抗して、自分という小さな殻の中で生きていく。

昨日、今日、明日。

 繰り返して、巻き戻しをして。繰り返して──また終わる。

 けど、僕にとって。今日が終わる意味は──違う。 

 それは、僕の敷かれたレールが終わるとき。決められていた僕のレールが終わるとき。たった同じ一日なのに、それは今までの足跡を壊してしまう一日になる。今までのちんけな視点が嘘みたいに、大きな扉をこじ開けて飛び出していく。

 でも、それは不安も一緒だ。これまでいつも使い古してきた、快速列車をここで乗り換えて、僕専用の鈍行で、今にも故障してしまいそうな列車に乗り換える。それは不安以外の何者でもなくて、僕には分からない。

 目的地は見つけた? 燃料は積んだ? 視界は良好? ありとあらゆる要素を取り除いて、自分で敷いていくレール。サボりも手抜きも自由。僕の気持ちという漠然とした基準だけがそこにはあって、僕は壊れそうな自分にオイルを継ぎ足してく。

 ギシギシと嫌な音を立てて、僕が動き始める。


 僕はこんなにもだれかを頼ってた。

 この生理的に受け付けない嫌な音が、合わない歯車を一生懸命合わす音が、何よりも僕にと届けられる真実への警鐘。

 この音を聞いているうちに、どんどん自分が嫌いになってきて、こんなにも醜くて汚い僕が今さら走っていけるのか、なんて思ってしまうけど、もう支えてくれる人たちはいない。僕しかいない列車だから、どうしようもない。

 逃げ場を探して、見つからないから自己嫌悪。

 少しは成長しろよ、なんて言葉が周りから聞こえてきそうだ。


 僕は少しだけ笑って、手と手を合わせる。これから大丈夫かな、そんな弱音は胸に仕舞い込んで、上を向く。

 すると、真っ赤な夕暮れだけが僕を勇気付けてくれていた。

 だれもいない校舎。その廊下。僕はグラウンドが見渡せるその場所に立っていた。だれにも見つからない、ひっそりとした廊下角。

 もうほとんどの生徒は家に帰っていて、学校と言う雑踏は鳴り止んで、真逆の静けさを醸し出している。活動を休止している学舎は、今日を境に次の年を迎える。そんな簡単なバトンリレー。

 きっとその年の人間にしか見えないセピアが、今にも鮮やかに映し出されている。

 静まり返ったのは校舎だけじゃない。

 通いなれた通学路。真ん中にやたらと水たまりの出来る街路。大通りを抜ければ見えてくる、使い古された下駄箱。無駄に落書きの描かれた机。ロクでもない遊びにしか使わなかった部室。価値なんてなにもないのに、そこにいるだけで何故か楽しくて、難しいことも後回しにして、ただ喚いているだけの行為が、何よりも楽しくて、時間という時間を使いまわった。

 それは僕にとっての永遠だと思ってた。いつまでも変わることなく続いていくことなんだと信じきってた。

 時の流れが、みんなを少しずつ変えていって、僕の中に住んでいる感覚も、触媒も感情も、形に出来ないおぼろげな輪郭が浮かんできて。

 いつか──とても置いてきぼりになっているように感じて、そこにあるはずの物が変わっていて。


 僕は取り残された────?


 ──だれも聞いてない。

 分かってる。だから僕の汽笛は鳴らない。

 僕はこれから一人になる。

 振り返って、たった一つだけ叫びたい。 

 なにより僕が失ったもの。

 ──君。


 目を閉じて、大きく深呼吸して、両手を天に突き出しても変わらない。事実は事実だと受け止めてもいる。その温もりは遠い。見えているけれどすごく遠くて、手を伸ばしても蜃気楼のようにすっと消えていく。

 からっと乾燥した空気が廊下には蔓延していて、どこか涙を誘うような雰囲気を持っている教室。学年を記すプレートは寂れていて、手書きで大きくローマ字のBが札に付け足されている。僕は背もたれして壁によりかかって、暗くなり始めた空を見つめている。

 ふっと気がつけばあのとき続きで、あれだけ遠かった君は長い髪をなびかせて、僕のいる場所を探し当てている。

 小さな足取りで、遅々とした君の歩幅。小顔で背が低くて、手は本当に小さい。それなのに背中にまで達する髪はほつれを知らないサラサラで、一度風が吹けば、君のいいにおいがここまで辿り着いてくる。

 予感はしてた。のっけから君は僕に気がついていて、僕も君に気がついている。だから顔を突き合わすのは時間の問題。だから君もたくさんの時間をかけて僕の方へ歩いていたし、僕は君が止まるまで、何もなかったかのようにグラウンドだけを見つめていたから。

「おつかれ」

 君が短く言った。

「うん、おつかれ」

 だから、僕も短く返す。

「どうだった……?」

「泣いたかもね」

 僕は考えてから言った。

 僕には予測できなかったが、その僕の返しに君は満足したのか、何も言わずに僕の横に立って、手すりに羽根の体重を預ける。僕はそれを横目で見てから、またグラウンドに視線を戻した。胸ポケットについたままの花はピンクで、目の前に佇んでいるのはあのときの君。

「泣き虫」

「そういうきみも涙のあとがくっきり残ってる」

 泣きはらしたとまではいかない、少し腫れた瞳。涙もろい君なら、今日をどういう風に感じたのかくらい僕にも分かる。

「いじわるだ」

「さぁ、どっちがだろ」

 君の非難まがしい声を僕は軽く受け流す。

「式だって、途中で抜けるんだから……」

「……いれなかったんだよ」

「いるかなって見ても空席。びっくりした」

「証書はもらったから大丈夫だよ。あとは退場だけだったし」

 たしかに、僕の右手にはずっと黒い筒が握られていて、その中身は確認するまでもなく、僕が三年の月日を費やしたことに対する証明書。

 でも、それを手にしたということは、僕の三年間は既に過去の物になったということだから。僕にはまだ読み上げる自信なんてない。少なくとも今日だけは、絶対にこんなもの必要ない。

「中田くんだって心配してた」

「あいつが心配するのは女の子の前だけ」

「心配してたよ」

「あー……。そういえば中田はもう帰ったの?」

 僕は逃げるように話題を変えた。当然君はそれを察知しているだろう。けど君は目を瞑って、僕の意図を汲んでくれる。

「多分いつもの喫茶店だと思うけど、みんな集まるって言ってた。行くの?」

「僕? まだ行かない」

「行かないんだ」

 ぽつ…と、君からこぼれたその感情は何なんだろう。

「うん、もう少しだけここにいたいから。でももうすぐ行くよ」

 廊下に立っているだけで、こんなめでたい日にも関わらず友達に会いに行かないなんて、僕はどれだけ付き合いが悪いのだろう。想像しようとしたけど、あいつらの反応が目に見えて分かるから、余計に前が霞みそうになる。

「……こんなところで何してたの?」

 打って変わって、君は意を決したかのような神妙さで僕に言った。まるで、僕を問い詰めているかのような、そんな君の裏側が透けて見えるくらい。

「初めてきみと会ったときを思い出してた」

 だから、君に嘘は言わないことにしてる。君は嘘が大嫌いだから。一度、君に心配をかけまいとした嘘が、僕と君の中でどれだけ重石になったのか。僕と君は理想的な二人とは程遠くて、お互いが不器用で、でもそれも二人ともが知っている。難解なパズルをどう組み合わせれば、そんな器用な答えになってしまうのか、それはどんな数学の公式にも載ってはいない。

「……うん」

 君は小さく頷いて、また分からないくらいの細い笑顔を繰り返す。

 見慣れきったはずの君の顔はすごく大人びていて、僕の考えていた君よりもずっと大きくて、高い壁のようなものにすら感じられた。

「この教室、懐かしいね」

「ほんと、そのまま残ってる」

 乱雑で散らかった椅子、おめでとうやら、カラフルなチョークでいろいろ描かれた黒板。放置したままの日直日誌。時間をそのままにして、止まってしまっている教室はゆらゆらと輝いて見えた。

「ここだね」

「うん」

 僕は隅っこにある埃の被った机に乗っかった。

「昨日みたい」

「僕もそう思う。でも、もう三年経った」

 まだ覚えてる。この席が一番暖かかったから。

 君と話をしたのは、僕が授業中に教科書を貸したのが初めてだった。早くから優等生の空気を滲ませていた君が珍しく物忘れをして、置勉常習犯の僕が教科書を貸したという、なんとも不思議な構図だった。そのときの奇縁が基になって、僕と君は知りあった。

「たしか……現社だったっけ?」

「うん、あの時はすっごく慌てた。朝確認したのになかったもん」

「入学早々だったし」

「あまりに焦ってたから、実は貸してくれたときも始めはわけが分からなかった」

「それも知ってた。だって目が点になってたもん」

「む…そんなことない」

「え──みたいな顔してさ、君には敵わないけど、あのときは僕だって少しは勉強してた」

 月並みと言わざるをえないけど。

「でもノートとか取ってなかったじゃない」

「途中で何喋ってんのか分からなくなってきてさ、しまいにはこれは日本語かって思った。それに勉強はもともと苦手って言ってただろ」

 彼女はそれでも手厳しかった。僕に勉強を強要してくるあたり、筋金入りの優等生だった。

「テストのとき、何回もおんなじとこ勉強してた」

「生憎、要領も悪い」

「調理のときはフライパン焦がしてた」

「そりゃ、料理もできない」

「球技大会のときだけ……少し格好良かった」

「あれは偶然……」

「いつもそれしか言わないんだから、もっと自信持ったらいいんだよ」

「じゃあ、宝くじにでも当たったら自信持つことにするよ」

 駆け抜けてきた季節は色褪せてはいるけれど、フィルムとなって刻み込まれている。再生されるまで時間はかかるけど劣化はしない、心の奥底一番の場所に保存されるべきものだから。

 チャイムが鳴った。

 お決まりの間の抜けたあの音が響き渡って、一瞬だけつむじ風が吹き荒れた気がする。何百と聴いてきた急かすためだけにあるアレも、今聞いてみれば、変な曲にまできこえてくる。

 そのチャイムもやがて鳴り終わって、不意に時計に目を向ければ、いつかの下校時間になっていた。

「ねぇ」

「なに」

「今日、久しぶりに一緒に帰ろっか」

「……そうだな。一緒に田中たちのとこ行くか」

「みんな待ってるもんね」

「あいつらなんか待たしとけばいいんだよ。どうせ終わってからまた宴会だろ」

「田中くん未成年なのにね……」

「今日は無礼講」

「……ふふ。そうだね」

 一際大きく笑ってから、君は腕をうんと上げて背伸びをする。そのあとで大袈裟に息を吸って吐いた。

「みんな、ちりじりになっていくんだね」

「……そうだな」

 ずっと一緒にはいられない、それは分かってる。

けれど今、こうしてみんなとの別れを突きつけられていても、どうしても現実感が希薄で実感できないのはなぜだろう。別れたってどうせ会えるって保障はないし、僕自身それは分かりきっているはずなのに、どこか魂が抜けている。

 あって当たり前のものが消えていく。何故なのと訊いても、答えがない分性質が悪い。

「辰也と良太は大学、裕貴は専門学校。会おうと思えば会えるさ」

 教室の窓から撫でる風が気持ちいい。君は髪を耳の上にかきあげて、僕と同じ風を受けている。

「でもそういう人に限って、ずっと忙しいんだよ」

「かもしれない。けど僕のことだから、すぐに投げ出すよ」

「……変なとこでマイナス思考」

「笑うなよ」

 君がしかめっ面をしたので、僕は正反対のことを言った。

「笑っちゃう」

 ぎこちない顔。

「短大に行くんだよね」

 僕は続けた。すると君はまた深呼吸して僕に向き直った。

「保母さん」

 短く、君の口から慣れ親しんだ職業だった。

「ずっと言い聞かされたから、それ以外だったら怒るよ」

 当然だよと、僕は手を振って君にジェスチャーする。初めて会ったときから、君はずっと保母さんになりたいと言い続けてきた。僕が保育士になるんじゃなかったっけって訊いても、君は顔を真っ赤にしながら保母さんに拘っていた。

「……きびしいんだね」

 でも、返ってきた返事は僕の予想に反していて、いかにも君らしくない、すごく弱々しくて頼り無い。どんなときでも凛としていた君の姿とのギャップ。僕はその感覚さえも時間の所為にしようとしている。

「厳しくなんかないよ。ただ君がそうならないといけないだけ」

 あれだけ頑張っていたから、君が報われないなんてことは許せないし、君の頑張りが認められないなんてもっと許せない。君がもし保母さんになれないと認めざる日が来るというのなら、僕はどう足掻いても、この三年間に囚われたままの人であり続ける。

 僕のどんなつよがりも、君のつよがりの前には硝子細工の滑稽なオブジェそのもので、密度も硬度も、綺麗さも違う。

 君の願いは叶って然るべきもの。それは君が君自身の手で敷いた、未来へと続く一本道だから。その道の聡明さ、壮大さは、どんな台風や雷雨が来てもビクともしない。

 それだけの向こう側が君には用意されている。

「コウ、いつもわたしにはきびしいよ」

 三年という日々は長くて、永遠に続いていくものだと思ってた。

 『僕の過ごした日々』がこの見渡しきれない景色の基になっているものだと決め付けて、それだけは変わらないと思ってた。

 だから、これからもその日々は続いて、その延長線上に数え切れないほどの出会いと別れが待っていて。

 いろいろなことを体験して、出会って、泣き笑うものだと信じてた。

 でも、いつかの日が経ったときに、本当はその延長線の境界なんてまるでなくて、全てのものに等しく数え切れない出会いと別れがあることを知って。


 ──すごく不安になった。

 この日々が続きますように。時間が止まるように。

 ずっとこのままでいれますように。

 変だ。

 気づくまでは時間なんて、無限にあるものだと考えてたから。

 それでも、日々は僕のいちばん大切なものも奪っていったから。


「好きだから、きみのことが」


 声にしなくとも。

 君はずっと傍にいてくれた。いつも呆れては目を背けるけど、すぐにその笑顔を僕に向けてくれて、どんなことも理解してくれて、でもときには身を呈して僕を諭してくれた。すごく感謝してる。僕にとっての君は生活の全てだった。

 起きては君を考え、学校で君を考え、寝る前に君を考えた。君中心の生活が至極当たり前にあって、それが僕にとっての日常だったから。

 僕は君を知っている。

 それどころか、僕しか知らないことだってたくさんある。

 君の表側も、君の裏側のことだって、君が猫被っていることも、君の寝相だって知ってる。

 僕しか知らない君と、君しか知らない僕。そのバランスを保ちながら綱渡りしてきた。三年間はもう終わってしまったけれど、これからのレールに君がいると勝手に思い込んで。

 浅はかで、汚くて醜くて。僕は一体どこまで逃げれば気が済むのだろう。


「すごく、胸が暖かくなる」

 君……………。結子は俯いた。

 そこだけ何も流れていない気がした。遮断されている。僕の言葉が君に届いているのか、君に浸透してくれてるのかはよく分からない。ただ分かったことは……きっと結子は全部知っていて、僕にだけそれを告げないという、一種の焦らしなんだってこと。

 結子はそんなことはずっとしなかったけど、今の僕らを見れば、結子の態度こそがごく一般的なものであって、僕に至っては冷静を欠いているんじゃないかなって思える。

 惑わしてくる。

 この空気、この景色、この記憶が。僕の根底を覆すような大地震を幾度なく繰り返して、やっと収まったかと思うと、すぐにまた僕の感情が決壊して、また結子を求めてしまう。

 でも結子は優しいから、僕の願いを断りきれずに、優柔不断な間をわざと作ってくれる。だから僕にまた……大きな地震が訪れてくる。

 なんか。終わりのないデキレースでも走ってる気分になる。

「わたし……。わたしね……」

「いいよ。無理しなくても。僕はあの時のままワガママだから、結子を困らせるのが好きなんだ」

 僕の救い舟に反応して、結子の唇は震えて、紡ぎ出されるはずだった冷たい嘘は、言霊にはならない。

 結子はなんでここに来たの? 僕は辛い。答えを探したくない。

 結子の冷たくて、凍えそうな嘘はもういい。結子だってこんな嘘、言いたくないはずだ。なんでこんな哀しくて意味のない平行線が続いているんだろう。自問自答すると、僕の嫌らしさだけが浮かんでくる。

 僕は地面を、結子は小さな胸を何度も上下させながら、空を見上げる。

「お日様、落ちちゃったね……」

「うん。僕ら最後の太陽だった」

「でも、まだ月が残ってるよ?」

「……そうだね」

 正論過ぎて、言い返す気もなくなった。太陽は落ちた。でも月がある。

 そりゃそうだ。けど、太陽はもう昇らないんだ。僕らの日はもう続かない。あるのは行き止まりの看板だけだ。

「……満月、だったらいいね」

 なんで結子はそんなにも気丈なのだろう。今にも破顔してしまいそうで、僕はそれを受け止めてあげたいけれど、それはきっと僕の出る幕じゃなくて、その内側に潜り込もうとする僕を結子はとめる。逆らえば逆らうほど、結子は困るだろうけど、僕はやっぱり我侭だから、潜り込もうとする。

 僕にはもう結子に謝る資格もない。

 いつも、いつも傍にいてくれたのに。僕だけが直に結子に触れていたのに。何もしてあげることが出来なかった。

「最近は月も見てないや」

「忙しい日が続いたもんね」

「結子ほどじゃない。僕はマイペース」

「わたしもマイペースだったよ。風邪にもかかり気味だったし、学校にもなかなか来れなかったんだから……」

 三学期が始まってから、結子は学校を休みがちになっていた。

 僕はもう結子の近くにいてやれなかったけど、ずっと結子の噂はチェックしていたし、離れているにも関わらず、学校で一番結子のことを気にかけていたと思う。

「それは僕も。就職活動しろって担任の小石がうるさくてさ、地元ならたくさん口はあるだろーって教室から追い出すんだけど、でもそんな気にもなれないから、いつも街をぶらぶらして時間潰しするんだ。

 それでいよいよ時間が近づいてきたら、それらしい求人票をいくつか持って夕方頃に帰るんだ。じゃあ小石は満足そうによくやったなとか言うんだよ。でもそれは初めから用意されていた求人票だよ? 僕はもう何も言わないんだけど、それは小石だってそう。僕は大学受験するわけじゃないから、この時期になれば構う余裕なんかなくなるし、小石も勝手にやって欲しいって思ってる。僕もそれに異論はないし、受験する人の邪魔しちゃ元も子もないから、勝手にした。

 かわいそうなんて言っちゃダメだからね。その時間は僕は僕で有意義だったんだから」

 こんな話をすれば、結子がどう返してくるかなんて分かりきってたから、とりあえず先に釘は刺しておく。言っておかないと、また発展性のない話になりそうだから。

 僕にとって進路はそう意味を持つものじゃない。

「それで、仕事は決まったの……?」

「たくさんサボったけど、どうにか街中の工場で働くことになったよ」

「どんなことするの?」

「車の整備とか、そんなに大層な仕事じゃないんだけど、しんどい仕事らしいよ」

 僕はこう見えても、デスクワークよりも力仕事の方が得意だったりする。

「コウらしいね」

「どういう意味だよ」

「そういう意味」

「分かんないぞ」

「わたしの知らないコウはどんな人?」

 なんて、簡単に出るんだろう。

「すっごく汚くて、どうしようもないダメ人間」

「でも……少しだけ優しい」

「違う、それは女の子の前だけ」

「そう言うのもわたしが女の子だから?」

「ああ、それ言えてるな」

「コウはダメなんかじゃないよ」

「そんなこと言ってたら、裏切られるよ?」

「コウはね、口では無理とか、止めとけとかしか言わないけど、するってなったら少しも諦めないんだ。休憩したらって言っても、もうすぐって言うのに、結局最後までやり通しちゃう」

「結子がなにが言いたいんか分かんない」

「コウは諦めない。どんなときでも、たとえそれがコウの言う通り汚くて酷い所だとしても、コウはもがいて、みんなもう疲れて動けないのに、みんなの分までもがこうとする」

「それならすごく良い奴じゃん。僕はそんな回りくどいこと引き受けないよ、挫折するしか能がない人間だから」

「あとマイナス思考もコウの得意技だよね」

「得意もなにも、マイナスは僕の成分」

 ……それも水分並みの。

 それにそんなに素晴らしい僕の像が出来てたなら、一刻も早く撤去しないとハードルが高くなる。

「わたしの知ってるコウ」

 でも、結子は。君は一点の曇りもないきっぱりとした口調で言い切った。

「そ…、無茶振りする……」

「わたしの知ってるコウ」

 もう一度、結子はよく通る声を続けた。僕がしろみもどろになっても、結子は言い訳は聞かないって言いたげに。

「違うよ」

 だから言った。

 僕は……違う。みんなの分まで頑張ってなんかいない。認めたくないけど、結子の分だって怪しいもんだ。周りが見えてなくて、闇雲に走り回っただけだ。

「コウ……」

 結子の悲しんでる表情は嫌だ。

「コウは……やっぱり、変わってないね」

 我慢してた結子の頬に伝うものは気づいてないフリをした。結子自身、気づいてなさそうだったから、拭ってあげようとも思わなかった。

「わたしが……変わっちゃったの」

「勘違いしてない? 僕の大前提が間違ってる」

「また欲しいね……」

「時間な」

「うん」

「僕もだ」


 結子、君は何を考えているの? 僕には教えてくれないの?

 どこに行こうとしているの? どこが終着駅なの?

 結子、それは保母さんで、それはだれかの腕の中じゃないの?

 前が見えない。


「僕は失った」

 僕たちの三年に満たない時間は唐突にやってきた。

 『もう壊れたほうがマシ』何度思っただろう。何度リセットボタンを押しただろう。何度僕を呪っただろう。何度悪い夢だと目を背けただろう。

 けど、時間は止まらなかった。

 急に学校なんて行きたくなくなった。ゲームセンターの喧騒がチャート音楽になった。無数のパチンコ玉が部屋に散らばった。

 あんなに結子が嫌がってた煙草も身体に馴染み始めた。

 そして僕がいよいよ体調を崩し始めたとき、例にとって、もう友達の一人にも入っていない僕の目の前で、何故か結子は僕以上に号泣しながら僕を止めた。

 僕も泣いた。自分のあまりの情けなさと弱さに。

 脆い自分を痛感させられて、僕は本当にクズ。通知表のように突きつけられた事実は、同時に僕を崩壊させるだけのスパイスと麻薬を含んでた。

 あの日、同じこの教室で。

 理由は教えてもらえなかった。

 ──もう付き合えない。ごめんね。

 僕も必死で何とか食い下がって、もう嫌いになったのと訊ねたら、首を左右に振った。

 分からなかった。分からないけど、結子は、ただ枯れるほどの涙を流して僕の前で謝り泣いていた。

 それで真夜中、僕のベットの中で脳みそをフル回転させて、かろうじて導き出せた結論は、結子を守ってあげる人が僕じゃなかっただけ。とだけ理解した。

 反芻するそれを飲み込むのに、僕に学校は不必要で、パチンコやら煙草やらが必要だった。

 だって現実また直視出来ないもので。

 でもあの日、僕はまた間違った。

 結子が僕に教えてくれなかった理由は、ちんけな理由なんかじゃない。それは結子の態度を見れば明らかなのに、あれだけ僕は結子と一緒にいたのに、すごく不甲斐なくて。

 僕は、その結子の決意を無駄にする行為しか取れなかった。

 でも、結子は僕に前を教えてくれた。

 だから、取れないつっかえはあっても前を見据えた。歩を出して、受け止めようと思った。どんなに悲しい出来事も、目を背けないことにした。

 そして今……、僕はやっと……。

「わたしも……失くしたよ。一番大事なこと」

「僕もだ。でも、肝心の僕は諦めが悪い。結子ほど大人しくないから」

 前を向いた。

 結子に教えられた。逃げちゃいけない。結子が欲しいから。

「みんな……覚えていける?」

「ああ、もちろん。僕はこれから大変だけど、いつか一人前になって、一人前の人間になってやる」

 絶対になってみせる。いつか僕が僕を誇れるように。

「結子と──もう一度戻れるように」

「……わたしに構ってたらずっとダメ人間だよ?」

「ダメ人間上等。僕はダメだけど、諦めが悪いんだ」

「じゃあ、わたしに他に好きな人が出来たら……コウはどうする?」

「……やきもちでも焼いとく。それなら僕に好きな人ができたら、結子はどうするのさ?」

「ずっと泣くよ」

「そか」

「コウは止めてくれないの?」

「言葉だけ、伝えるのは簡単だから……」

 ──痛いよ。

 届かないと知っておきながらも、ずっと思い続けるのは苦しい。

 それでも立ち止まる時間は終わってしまったから、手探りでも前に進む。

 僕は君を掴んでみせる。

「結子が僕に隠してることを絶対に訊きだしてやる」

 だから──結子が知ってるコウになりたいと思う。

 もう一度、結子をこじ開けてみせたいから。ダメな所はたくさんあるけど。

 結子といっしょにいれるように。


「やっぱり……わたしね」


 僕の手には、一枚の卒業証書が握られている。

 生きていく。これから僕は一人の人として、社会を生きていかなくちゃいけない。


「コウのこと、好きだよ」


 まだ、違う────。まだ──違う。

 僕の求めている好きと、今君が僕に向けてくれる笑顔は。

 ────きっと違う。


 僕はまだ、結子の闇を開かせることは出来ない。


 ──僕、君、心。





──────────────


あとがき


 最後までお読みいただいてありがとうございました。

 辻沢です。

 これは一年以上も前にボツになったものなのですが、それを少し変えて掲載しました。

 元々は中篇物語にと考えていました。それがこういう形になったので、いささか伏線が回収しきれていませんね。サボり仕様です。

 簡単な単語を使って、どこまで会話に深みが出るか……なんてコトを考えながら改編しました。

 ううむ。まだまだですね。

 では、未定の次回作で会いましょう。




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