殺すべきか、解放すべきか、それが問題だ
「くそっ」
ブラインドをのぞき見るたび警官の数が増えている。
暑い。暑すぎる。激辛ソースを一気飲みしたユーチューバーでもここまでの汗はかいてない。ナナトはジャージの上を脱ぎ捨てる。ジャージはぐしょぐしょで、脂の臭いが鼻についた。中に着た黒いTシャツも汗ですっかり変色していて、たぶん雑巾みたいに絞れるだろう。
「すごーい、ドラゴンがいるチロ!」
チーちゃんが黄色い声をあげた。
「すごいですねぇ」
その隣でQもほのかにテンション高めだ。
「それにあれ、あれってペガサスじゃないですか? あの空飛んでる……」
「うひゃ、本当チロ、百鬼夜行チロ!」
チーちゃんがQの手を持ってぴょんぴょんと飛び跳ねはじめる。Qはそれを拒むでも振り払うでもなく、警察に向ける目を細める。
――なんだよこいつら、なんでこんなにお気楽なんだよ。
ナナトは窓際ではしゃぐ二人から離れ、三人がけのソファの真ん中に腰を下ろした。身体は鉛のように重く、頭はどうにかなってしまいそうだった。
「天国警察の機動力はすごいわよ」
ソファ近くの壁にもたれかかった快慶が言った。
「諦めたほうがいいと思うけど」
横の一人掛けソファで足を組むセルフィーも付け加える。
さっきの電話のあと、根負けしたナナトが銃を下ろしたこともあるのだろう、彼らの表情にはわずかな安堵が見てとれる。ただひとり異様に青白い顔の運慶だけが、腹を押さえセルフィー向かいのソファの上でうなだれていた。
「さてナナトっちさん、これからどうするつもりなんですか?」
Qが窓からナナトの方を向きなおり言う。
「そうチロ! たしかに聞いてなかったチロ、ナナトっち教えてチロ!」
チーちゃんも話に乗ってくる。
え? もしかして俺もうナナトっちで固定なんですか、と若干戸惑いながらナナトは答える。
「異世界だ」
「異世界?」
「そう異世界。俺は神に異世界への転生を要求する」
「いや、でも……?」
Qが首をかしげる。
「でもナナトっちさん?」
「え、なに?」
「ここだって異世界では……?」
彼女の黒い髪が天井の照明をキラリと反射する。
「ドラゴンだっていますし?」
「あ」
「ナナトっちの夢ってもう叶ってるチロでは……?」
「あや、いや、それはあの、まあここもファンタジーちゃあファンタジーなんだけど、若干ローファンタジーっていうか、ちょっと違くて……」
ナナトは目をぱちくりさせる。
「俺が行きたいのはなんていうのこう、中世ヨー、いやそうじゃなかった。えと――」
「だからあなたの希望は異世界チートものでしょ?」
セルフィーが横から口を挟んでくる。
「転生時に現代の知識や技術を持ちこんだり、特殊能力を手に入れて、文明レベルの低い現地人相手に無双する――」
「はぇあっ、あー、あのっ、ははっ、いやいやだから俺のはそういうのじゃなくなくなくないっていうか……ひと味違うってか……」
「ねぇねぇナナトっちー、チーちゃんあんまわかんないんチロけど、それってまさかあの無駄にハーレム作ったり、修行シーンやストレスフルな状況が限りなくゼロに近い、あの異世界じゃないチロよね?」
チーちゃんが露骨に嫌そうな顔をする。
「いひっ、や、いやいやいやいや」
「あーもしかしてホームシックな描写がなかったり、不自然な奴隷制が出てきたりするアレですか? 私も詳しくはよく知らないのですが……」
Qも顔を曇らせる。
「うふ、うふふあは、ちちち違いますよ、はは、そういうんじゃなくてそういうんじゃなくて、俺のはなんというのこうパンク、いやポストモダンっていうのかな? ありきたり、通り一遍の異世界じゃなくてですね……」
――いや待てよ、そもそもチーレムとか奴隷制とかって、日常的にそういうの読んでいる人間じゃなきゃわからなくね? 煽ってる? 知ってて煽ってるよね君ら?
「あーならいいですね。私、ああいうのすごく苦手で」
「だよねチロ! やっぱテンプレはだめチロ、言語道断チロ」
二人の笑顔がなんだか辛い。
「ちょっとちょっとみんなもうヤダなー、俺の異世界はえと……その新世界っていうかさ? 俺が新世界の神になるっていうんですか? あ、ちなみに大阪の新世界の神はビリケンさんっていうんですけど――」
ナナトはとりあえず喋った。なにか喋り続けないと心がポキリと折れてしまうと思った。
「てかQちゃんはともかく、チーちゃんは結構メジャー感あるじゃん。その格好ってきゃりーぱ――」
「あの、適当なこと言うのやめてもらえます?」
チーちゃんの眼光がやにわに鋭くなった。
「ぁ、す、すみません」
――やべ、地雷だったか。
「チーちゃんはアーリーアダプターなんです」
彼女の地声は結構低い。
「ファッションモンスターじゃないんです。わかります?」
「は、はい、そうっすよね。俺も絶対そうだと思ってたんですよ」
「じゃああれですね」
Qが小さく手を打った。
「チーちゃんさんはいわゆるヴェイパーウェイヴって感じですね?」
「そうチロ! やっぱQちゃんは見る目あるチロ!」
「は、はぁ……」
ナナトはファッションモンスターとヴェイパーウェイヴはなにが違うの? と思いつつも、テン年代、ダイバーシティ、パラダイムシフトなどと意味もわからぬふわっとした単語でチーちゃんさんをベタ褒めしながら強引に話を戻した。
「まぁとにかく俺の異世界もそんな感じなんで、明日、明日もう一度来てください。最高にオリジナル、最高にブランニューな異世界をお見せしますよ」
「ふーんナナトっちも結構言うチロね、ちょっと楽しみになってきたチロ」
「期待しておきますね」
「お、おう。へへっ、いひひひ……」
ナナトがデレデレと頭をかくと、
「……なーにがオリジナルだよ」
ジト目のセルフィーがぼそりとつぶやいた。
「手前が欲しいチート能力すら答えられなかったくせに、この腐れニートが――」
「ちょーっと、ちょっとちょっとニートだなんてそんなことないですしおすし、俺はちょっとこうアレなだけ、あのあれ異端児、一匹狼、アウトサイダーなだけですから!」
「一日中家にいるくせにアウトサイダー? ドロップアウトの間違いじゃないの?」
セルフィーが編み上げサンダルに覆われたナマ足を組み替える。
「ねぇ、快慶もあの閻魔帳のグラフ見てたよね?」
「あぁ、たしか言語性と動――」
「はいやめ、やめー、やめーい! そういう本質に迫ることを言うのはやめよう。ね、やめてください」
「あのー」
「ひゃ!」
突然、死角から話しかけられナナトはぎょっとする。
「……ちょっといい?」
さっきからずっとソファの隅で唸っていた運慶が言った。今にも消え入りそうな声だった。
「……アタシ、もう一度トイレに行ってもいいかしら」
「はっ? ダメだダメ、もうちょっとだけ我慢してくれ」
「それがもう限界なの」
「いやだって、あんたついさっきまでトイレにいただろ」
「んーでも、ちょっと今日は厳しいのよ」
「そうよそうよ、運慶は朝からずっとトイレに籠りっぱなしなんだから!」
「そう言って俺を撹乱しようと」
「そんな訳ないじゃない! オカマにはオカマの事情があるの!」
「あなたゲイの友達もいないわけ? ポリコレのない人間は叫喚地獄行きなんだけど」
「んなのいるわけねーし!」
「あ、こいつそもそも友達一人もいないんだった」
「おい!」
「あ……ちょっと大声出さないでヤバ、あん、あぁ……」
「ちょ待て、おい!」
「と、とにかくノンケでもオカマのこともっと察しなさいよ!」
察しなさいよ、とか言われても、察しようがないんですが……それは、などとナナトが茶化してみようにも、快慶とセルフィーはこの調子だし、運慶の顔色はますます悪くなるし、Qとチーちゃんは刀剣がどうとか盆栽がどうとか隠れオタ同士の探り合いで密かに盛り上がってるし、どうしたらいいのかわからない。
プルルルルルル。
さらに電話まで鳴りはじめた。
「警察!?」
ナナトは飛び上がる。空気が一瞬で引き締まる。奥の部屋、観葉植物で扉が閉まらぬように固定してある転送室の電話を意識する。
「い、いや、違うわ、アタシ、アタシの電話よ」
快慶が言った。
撃たないで、と彼は片手でナナトたちを制しながら、懐からスマホを取り出した。
たしかにその電話が着信していた。
「出てもいいかしら? 彼氏なの。今日はこれからデートの予定だったから」
「あのぁ、ほんと限界、トイレに……」
「あ、チーちゃんも運慶さんの後にトイレ行ってもいいチロ?」
「そうだナナトっちさん、あっちの電話をこっちに持ってきてもいいですか? 電話が鳴るたびに、毎回あっち行くのって面倒なんじゃないかと?」
「私、宅配便の受取日時の変更をしたいんだけど? ふるさと納税の――」
「うわあぁぁぁああっっーーー!!」
ついにナナトのキャパがオーバーした。
「わかった、トイレに行け、電話に出ろ。みんなかってしろってぉ……」
呂律が回らず、最後のほうはまともな言葉になっちゃいない。
「そんかわりおかしなことはすんなよ」
ひどい有様であった。ナナトは完全にナメられていた。なんだよこの仕打ちは。銃持ってんだぞ俺は、銃さえあればなんとかなるって某ライフル協会だって言ってたのに。
各々が各々のしたいことをしはじめ、ナナトは再びソファに沈みこむ。
盆栽のカップリング的ななにかが一致したのか意気投合して、チーちゃんは転送室に行くQについていき、ナナトはひとり取り残される。
「なになに? 急に優しくなっちゃって」
当然のように取り出したスマホをいじりながらセルフィーが言った。声に明らかな棘があった。
「お、俺は願いが叶いさえすればそれでいいんだよ」
「ふーん」
セルフィーがスマホから目だけを上げる。
目と目が合う。
「うっ――」
凍てつくサファイアの上目遣いにのみ込まれそうになって、
顔を伏せたら今度はモロに胸の谷間が網膜に飛び込んできて、
ナナトは不自然に横を向いてごまかす。
ちょっとちょっとセルフィーさん、あなたいろんなところが攻撃的なんですって。
「うんだから本当に大丈夫だって。うん、怪我はないわ。大丈夫、大丈夫よ。デートはまた今度ね。うんまた、じゃあね、チュ」
ナナトが顔を向けた先で快慶がスマホをしまった。大男なのに少女みたいな表情だった。恋人はおろか女友達さえいたことのないナナトは、ふと生前の疎外感が思い出し、苦い気持ちになった。
しかし、そんな感傷にひたっている余裕すらない。
プルルルルルル。
Qたちが電話をテーブルに運んできたと思ったら、再び電話だ。
今度こそ本物、警察からの電話。
皆の視線がナナトに集まる。
彼はゴクリと唾を飲みこむ。指先にピリッとした緊張が走ったが、ええいままよ、と電話を取る。
『署長の吉田だ。犯人か?』
「そ、そうだ」
『君、名前は?』
「え、ナナト、安直ナナトだ、って違っ、やっぱN、Nって――」
『オーケーナナト、よろしく。ちなみにその電話は直通だ。通話ボタンを押せば私にかかるようになっている』
「は、はぃ……」
『さっそく本題に入ろう。真実を教えてくれ、人質は無事か?』
「あぇ、あ、あぁ、まあ無事だ」
『……まあ無事? 本当なのか?』
「う、嘘ついてもしょうがないだろ!」
『しかし、先ほど銃声があった。局のガラスだって割れている』
「あれは、その……威嚇射撃だ」
『威嚇?』
「とと、とにかく人質は無事だって! 一人下痢してるのがいるけどそれくらいでっ!」
『……わかった。なら君以外に誰がいるのか教えてくれ、君の仲間は二人か? それとも三人?』
「なっ……」
ナナトはQとチーちゃんを意識したあと言葉に詰まる。
『何人だ?』
「い、いい、言いたくない」
受話器を持つ手がガタガタと耳に当たって音が出るくらい震える。まずい、こちらの緊張が、情報がどんどん相手に伝わってしまう。
「あ、あのそんなことより俺の要求は――」
『待ってくれナナト、その前に人質の無事を確かめたい。交渉は皆の無事を確認してからだ』
「だから無事だって!」
『すまんが、直接見ないと信じられない』
「人質、セルフィーに電話をかわるから!」
『いや、私が直接そちらに行って確認するのはどうだ? もちろん拳銃は持っていかない』
「いやいやいやいや、そんなのダメそれはダメ。ムリムリムリムリ、拳銃なしとかそんなの嘘に決まってんじゃん!」
『しかし君だって嘘をついているかもしれない。すでに人質を殺しているかもしれないし、人質に嘘の証言をさせるかもしれない』
「俺は嘘なんかついてない!」
『わかったわかったすまない。いやだがな、交渉するにはお互いの信頼関係が大事じゃないか? お互いが信頼しあえばすべてうまくいく、な、そうだろ? そこで――』
ナナトは受話器を置いた。限界だった。
私は若者の意見だって尊重しますよ的空気を漂わせつつも、押さえるところは押さえてくる公権力特有の威圧感と、電話越しでも老獪さを感じさせる抑えのきいた声にゴリ押しされて、ナナトの思考回路は完全にショートしていた。
家庭訪問に訪れた担任や、両親に無理やり連れていかれた病院のことが脳裏をかすめ、胸が痛くなる。教師だとか、医者だとか、そういう自分より立場が上の人間から“信頼”とかいう抽象的な単語を盾に迫られても、いいことなんて一つもなかった。
「ナナトっちさん大丈夫ですか?」
「すっごい汗チロ」
「あ、おう……」
二人に電話の内容を伝えるだけでナナトの喉はカラカラになる。声がかすれ、まともに口がきけない。気合で考えないようにしていたことの重大さをいまさら痛感し、徐々に呼吸が速くなる。どうすれば? 俺はどうすればいい? 息が苦しい。身体の表面はねばつくように熱いのに、震えがとまらない。
「ちょっとナナトっちさん」
「大丈夫チロ?」
くらっときたところを脇から二人に抱えられる。
ナナトは「いやマジで大丈夫だから」と二人の支えを断ってソファの背もたれに沈みこみ、今一度大きく息を吸う。ソファと一体化したみたいに身体はもうぶよぶよだ。ざまあみろ、と言わんばかりのセルフィーと快慶の目つきも痛い。
――マジでどうしよう……、ナナトは本気で頭を抱えた。できる選択肢は多くはないのだが、そのどれを選ぶこともできず、無意味に時間が流れていく。
「これって私たち、見くびられてるんじゃないですか?」
「ナメられてるチロ、ペロペロチロ、臥薪嘗胆チロ!」
ナナトの頭上で女子ふたりが話し合う。
「こういう場合の定石は……」
Qが立ち上がりおもむろにベルト吊りのライフルに手を伸ばした。
「人質をひとり……」
「ちょいちょいちょい待ち!」
ナナトは飛び上がり、Qの前に躍り出る。
――いや普通にそれはなしでしょ、常識的に考えて!
「なんですかナナトっちさん?」
Qはナナトの肩口から、背後の人質たちをひょこひょことうかがいながら言う。
「この場合これしか選択肢はないでしょう?」
「見せしめチロ、天罰覿面チロ」
「いやいやいやいやいやいや! てか、んなことしても余計ややこしくなるだけでしょ」
「しかし、天国の方なら魔法で死者も蘇生できるのでは? ドラゴンだっていますし」
――へ? そうなの?
「え、そんなのムリムリ、冗談言わないでよ」
ナナトの背中に、ドン引きって感じの声色のセルフィーが言う。
「神ならまだしも……」
「あーそうなんですか」
Qの眉根が下がった。
「ならどうしましょう? 黙って警察の言うこと聞く、というわけにもいきませんよね?」
「チキンチロ、鶏口牛後チロ!」
「ですので、せめて指の二、三本くらいは……」
「魔女裁判チロ!」
「だからそっち方向じゃなくて!」
――なんなのちょっとみんなちょっと好戦的すぎじゃない? ヴァンパイアかよ、戦闘民族かよ!
「ならどうするんですか?」
あきらかに不服そうに歪んだQの顔を見て、ナナトの背筋に冷気が走る。
「そうチロ、具体的なエビデンスを示すチロ、印鑑証明チロ!」
チーちゃんも頬を膨らませる。
「それはそのあの、えとそのわと……」
ナナトはふたりに詰め寄られ、言葉を濁す。
なんでこの子らはこんなに血に飢えているんだ?
不意にソファに放置されたQのぶ厚い閻魔帳が視界に入る。あそこにはなにが書かれている? それにチーちゃんの閻魔帳はどこだ? 彼女たちの罪は一体なんだ?
ナナトはめまいを感じふらつきながら、必死の答えをひねり出す。
「や、いや例えば……、一人解放するとか?」
「解放?」
「だからあの――」
ナナトが視線をキョロつかせると、ちょうどトイレから運慶が出てきた。
「あ、運慶とか出してもいいんじゃね……?」
「えー、ありえませんよそんなの」
「甘いチロ、スイーツチロ」
「で、でも、さすがにあれはさ……?」
ナナトは運慶を指差す。
彼はトイレから出てすぐ、本棚に寄りかかりながら、何度も何度も腹をさすっている。顔面だけでなく手足も蒼白で、色の暴力みたいなチーちゃんと対比するとその悲壮感がいっそう増す。
「ね、なにかあってからまずいじゃん? においって結構立てこもりQOLに支障出るでしょ?」
数拍置いてQが言った。
「……たしかに」
鼻をつまんでチーちゃんも答える。
「たしかに臭いのはいやチロ、生臭坊主チロ」
「な、だから俺、運慶連れて外出るわ」
なかば投げやりにナナトは言う。
「運慶に人質の無事を証言してもらう」
さすがに見せしめで殺すよりは警察の“信頼”とやらも得られるだろう。
「うっひゃマジチロ?」
チーちゃんがただでさえ丸い目をさらに丸くする。
「ナナトっちそれマジに言ってるチロ?」
「マジだよ」
ナナトはうしゃうしゃ笑うチーちゃんを一瞥し、べとつく額の汗をTシャツで拭う。
「セルフィーもそれでいいよな?」
「そもそも私に決める権限なんてないんでしょ?」
とセルフィーはふてぶてしく答え、
「お願い、アタシはいいから運慶だけは出してあげて」
快慶も付け加える。
「ふふっ」
そこでいきなりQが吹きだした。
「……やっぱりナナトっちさんって面白いですね」
そしてチーちゃんともども腹を抱え身をよじりだす。
「へ? なに?」
――いやほんと、あなたがたマジでなんなんですか?
「ちょ、俺そんな変なこと言った?」
「むふっ、解放、解放って……」
Qは萌え袖ぎみな袖口を口元にあて必死に笑いをこらえている。
「え、えっなに? マジなに?」
「くくっ、やはっ、いや人質と外出るって、つまり、つまりナナトっちさんはあの警察とドラゴンのいるところに真正面から仕掛けにいく、ってことなんですよね? スナイパーや特殊部隊だっていそうなのに」
「勇気あるチロねー、チーちゃんには絶対無理チロ」
「……あー」
ナナトは言われてから気がついた。
やべぇ、警察以前に俺よく考えたら教室ですら無理だったんだ。
「やっぱりナナトっちさんはすごいですよ」
「この籠城犯がすごいオブジイヤーチロ、年功序列チロ」
「やの、やっぱあのさ――」
「もしナナトっちさんが狙撃されても、私たちが遺志を継ぎますから安心してくださいね」
「ナナトっちのことは絶対忘れないチロ、年一回くらいは思い出すチロ」
「うわ軽っ!」
ナナトは脱力した。サウナの中にいるような部屋の暑さも相まってそのまま溶けてしまいそうだ。
「しかも俺らもう死んでるから、いまさら遺志とかないし……」
「うひゃひゃチロ、ま、そうなったら……」
大爆笑のチーちゃんはQらをチラ見し、さすがにこれは大丈夫でしょ、基礎教養でしょという口調で言う。
「ボール的なサムシングを七個集めてもいいチロしね」
チーちゃんとほんの一瞬だけアイコンタクトでなにかを確認し、Qがあのきらめく笑顔で返す。
「ドラゴンだっていますからね」
――いや君たちセルフィーの話聞いてた?
ナナトはあきれた。アホかと思った。
――だけど。
「……はぁ」
ナナトは肺にたまった空気を一気に吐きだした。
正直、Qやチーちゃんがいてよかったとも思う。相談したり後ろを任せることができる人間がいるのといないのでは全然違う。一人だったら悩みまくった揚げ句、警察のいいようにされていたに違いない。
このふたりと一緒に異世界に行くのも悪くないのではなかろうか。三人いればなんとかいうことわざだってあるし、それになによりふたりとも可愛いし。
「あーもう!」
こうなったらなるようになれだ。
ナナトは太ももを強く叩き、チーちゃんにライフルを手渡し、本棚へと向かう。
「運慶行くぞ」
棚の最下段に手を置きうずくまっている運慶に手を差し出す。
「ぅん……あっ」
立ち上がった運慶は不安定によろめき本棚から聖書が数冊こぼれ落ちる。ナナトは慌てて彼に肩を貸す。
「アッー、……あ、ハァハァ……」
「おいここでブツをリリースすんのだけはやめろよな!」
運慶の重い体重を引きずるようにナナトは歩き出す。お互いの汗が交じり合って気持ち悪い。当たり前だが運慶は快慶と違い体温が低かった。
「……ねぇ」
玄関の前まで来たとき、運慶が口を開いた。
「なんだ?」
「よく見たらアンタって結構イイ男ね」
運慶は白い歯を見せて笑う。
「ちょっと垢抜けないところとか、タイプかも」
「いや、ちょっとそういうのやめてもらえます?」
しかも垢抜けないって、それ褒めてるの?
「セルフィー、鍵を開けてくれ!」
セルフィーが無言で移動し、玄関扉の前にしゃがみ込み鍵を開ける。
「今ならまだ間に合う。投降したほうがいいんじゃない?」
ナナトが目線を下げると、足元から見上げてくるのは絶対零度のあの瞳、美しく不遜なあの表情。
「いやダメだ。投降はしない」
ナナトはその瞳を直視できない。
「Qちゃん、中は頼んだ」
「はい、了解です」
「ふーん」
セルフィーが立ち上がる。顔にかかったピンクの髪をかき上げる。
「ま、好きにすれば」
その首筋は恐ろしいくらいに細くて白い。
「あ、ひとつ言い忘れてました。ナナトっちさん」
ナナトが扉の取っ手をつかんだとき、Qが唐突に言った。
「なんだ?」
ナナトは振り返ることなく尋ねる。
「異世界に行ったら私のスキルは“近距離パワー型”で頼みます」
「は?」
「私、一回オラオラってやつやってみたかったんですよね」
「チーちゃんは特質系がいいチロ、唯我独尊チロ!」
「……わかったよ」
ふぅーー、とまた息を吐いて、やっぱ君ら相当オタクカルチャーに詳しいよね、そう小さく独り言ちて、ナナトは重い扉を押し開けた。